梅雨が明け、道後の路地に夕影が差す頃。三千年の湯とうたわれる松山・道後の一角、椿の湯の門前に近い湯月町の細道に、木造二階の姿をそのまま残す小さな宿がある。旅館 常磐荘。全四室、大正の世に暖簾を上げ、以来およそ百年、同じ建物で湯守の代を継いできた町家旅籠である。道後温泉本館まで徒歩一分。派手さはない。けれど、玄関の引き戸を横に滑らせた瞬間に立ちのぼる古い木の匂いこそ、この宿の値打ちだと言える。本稿では、この一軒の来歴と建築、湯と食の系譜を、腰を据えて辿ってみたい。


旅館 常磐荘 — 松山・道後湯月町 · 大正創業、木造二階の出格子を残す町家旅籠の外観
PHOTO: 旅館 常磐荘 — 公式サイトを見る →

※ 本文中の参考価格は公式に案内される目安であり、時季や条件により実際の料金とは異なります。一泊のひとりあたり料金(税・入湯税別)です。

大正の木造が今に伝えるもの

建物が、まず語りかけてくる。通りに面した二階は、細い桟を隙間なく並べた出格子で覆われ、その足もとに瓦葺きの庇が低く張り出す。角には黒い焼杉の壁、軒下には古びた木の看板が「常磐荘」の三文字を掲げている。創業は大正九年、西暦一九二〇年と伝わる。以来、幾度かの改修を経ながらも、道路側の意匠と骨格は大正のまま守られてきた。松山の空襲や幾多の建て替えの波を越えて、木造二階の町家旅籠がこれだけまとまった姿で残る例は、道後でもわずかである。

軒先には、古い「内湯」の看板が掛かる。かつて道後では、各旅館が本館の湯を分けて内湯を引くことが特別な意味を持った。この一枚の板は、常磐荘が湯町の一員として歩んできた歳月そのものを示す証と言ってよい。二〇二三年、宿は客室をリノベーションしたが、手を入れたのは暮らしの快適さに関わる部分に限られ、大正の梁や天井、障子の格子はそのまま生かされている。新しさと古さの折り合いの付け方に、代を継ぐ者の分別が見える。

旅館 常磐荘 — 道後 · 軒下に掲げられた古い「内湯」の看板
PHOTO: 旅館 常磐荘 — 軒下の古い「内湯」の看板

玄関の帳場と、四つの座敷

引き戸を開けると、そこは往時の旅籠の間口である。土間から畳へと続く玄関まわりは、番頭が客を迎えた帳場の面影を今に残し、行灯めいた灯りが古い木肌を照らす。客室は全部で四室。道路側の「桐」(六畳)と「萩」(十二畳)は、窓を開けて右を覗けば道後温泉本館の甍が見える眺めの座敷。対して「桔梗」(六畳)と「椿」(十二畳)は眺望こそないが、通りの気配から遠く、いっそう静かに過ごせる奥の間である。いずれの座敷にも、大正の建築を生かした天井と障子がそのまま息づいている。

この宿には、テレビがない。湯と読書と語らい、そして道後の町の散策——そうした「温泉旅」本来の時間を味わってほしいという、宿主の一貫した考えによるものだ。座敷には浴衣や羽織のほか、石けんや手ぬぐいを収める湯かごが備わり、外湯めぐりへ気軽に出られる仕度が整う。古い建物ゆえ、音を完全に遮ることはできない。音に敏感な人には向かないと宿自らが正直に断っているのも、この宿の誠実さの一つである。

旅館 常磐荘 — 道後 · 大正の梁と障子を残し2023年に改装した和室
PHOTO: 旅館 常磐荘 — 大正の意匠を残す和室(2023年改装)

道後と同じ源泉を、部屋ごとの貸切で

湯が、この宿の背骨である。常磐荘の風呂は、道後温泉本館と同じ源泉を引いた源泉かけ流し。しかも大浴場に人が集うのではなく、内湯を部屋ごとに貸し切って使う仕立てになっている。四室という小ささゆえに叶う、贅沢な湯の使い方と言える。石を組んだ浴槽に満ちる湯はやわらかなアルカリ性単純泉で、肌に絡む感触は本館の湯そのもの。窓から差す光が湯気に散り、石肌を濡らす様は、時刻によって表情を変える。

道後の湯は、日本書紀にもその名が見える古湯である。三千年とも伝わるその湯を、行列に並ぶことなく、大正の座敷に籠もって心ゆくまで味わえる。これは本館至近の小旅館だからこそ描ける贅である。湯上がりに障子を透かす夕明かりを眺めていると、湯町の時間がゆっくりと流れていることに気づく。

旅館 常磐荘 — 道後 · 道後温泉本館と同じ源泉を引く石造りの貸切内湯
PHOTO: 旅館 常磐荘 — 石を組んだ源泉かけ流しの内湯

目利きの大旦那、包丁の若旦那——食の系譜

食卓に、代の継承がそのまま表れる。常磐荘の料理は、漁師でもある大旦那が瀬戸内の海で目利きした旬の魚を、若旦那が調理する魚づくしの会席である。仕入れる者と焼く者、造る者が同じ家の親子であるという構えは、いまの旅館ではむしろ稀だ。皿に並ぶのは、伊予灘・瀬戸内の白身の刺身、香ばしく焼き上げた切り身、鯛のあらでとった澄まし、貝や小鉢の一つひとつまで、その日の海が決める献立である。

供されるのは完全な部屋食。四室のみだからこそ、大広間の喧噪とは無縁に、大正の座敷で親子二代の仕事をゆっくりと味わえる。派手な演出や過剰な品数で押すのではなく、土地の魚を土地のやり方で丁寧に出す——その姿勢に、松山という城下の食の落ち着きが宿っている。

旅館 常磐荘 — 道後 · 瀬戸内の旬魚を主役にした魚づくしの会席(部屋食)
PHOTO: 旅館 常磐荘 — 瀬戸内の魚づくしの会席

湯町の路地に立つということ

立地が、この宿の性格を決めている。伊予鉄道市内線の道後温泉駅から徒歩およそ五分、道後温泉本館までは徒歩一分。椿の湯やハイカラ通りの商店街も指呼の間にある。宿を拠点にすれば、本館・椿の湯・飛鳥乃湯泉と、道後の外湯を湯かご片手に巡ることができる。夜、湯上がりの浴衣姿で温泉街の灯りの下を歩き、宿に戻ってまた部屋の湯に浸かる——外湯と内湯を行き来する、湯町ならではの過ごし方が叶う一軒である。

松山城や坂の上の雲ミュージアム、子規堂といった市街の名所へも路面電車で難なく届く。松山自動車道・松山ICからは車でおよそ二十分。屋外に四台分の駐車場(要予約)を備える。観光の拠点としての便と、路地の静けさとを、無理なく両立させている点が心憎い。

こんな旅人に

  • 向く:
    道後の湯と古い建築を静かに味わいたい夫婦旅・一人旅、外湯めぐりを軸に据えたい人、テレビのない時間を厭わない人、瀬戸内の魚を主役に据えた会席を求める人
  • 向かない:
    音に敏感で物音のない環境を求める人(大正の木造建築ゆえ完全な遮音はできない)、部屋に専用のバス・トイレを求める人(共同利用)、大浴場や大規模施設の賑わいを望む家族連れ

具体情報

  • 所在地: 愛媛県松山市道後湯月町4-2
  • 最寄り: 伊予鉄道市内線 道後温泉駅より徒歩約5分/道後温泉本館まで徒歩約1分
  • 客室: 全4室(和室6畳「桐」「桔梗」、和室12畳「萩」「椿」)・バス/トイレ共同利用
  • 湯: 道後温泉本館と同じ源泉の源泉かけ流し、部屋ごとの貸切内湯
  • 食事: 瀬戸内の魚づくし会席・完全部屋食
  • チェックイン: 15:00(最終21:00)/アウト 10:00・門限23:00
  • 参考価格: 一泊二食付 27,000円〜/人、素泊まり 17,000円〜/人(税・入湯税別)
  • 駐車場: 屋外4台(880円)・要予約
  • 創業: 大正9年(1920年)と伝わる/2023年に客室改装

Media Picks Score

93 / 100 — 道後という名湯の核心にありながら、大正の木造をそのまま残す稀少さ、本館と同じ源泉を部屋ごとに貸し切る湯の贅、親子二代で仕立てる瀬戸内の魚会席。この三点が、四室という小ささの中に凝縮している点を評価した。公開レビューデータを集計しても、湯と静けさ、料理への高い支持が確認できる。専用の水回りや遮音を最優先する旅程には向かないため、そこは差し引いての評価である。

よくある質問

Q. 一人旅でも泊まれますか。

A. 泊まることができます。全四室の小旅館で、宿自ら一人旅の客を歓迎しており、部屋ごとの貸切湯と完全部屋食のため、一人でも気兼ねなく過ごせる構えになっています。静かに湯と読書の時間を求める旅程に向く一軒です。

Q. 湯は道後温泉本館と同じですか。

A. 同じ源泉を引いた源泉かけ流しです。大浴場ではなく内湯を部屋ごとに貸し切って使う仕立てで、本館の行列に並ぶことなく、道後の湯をゆっくり味わえます。宿を拠点に椿の湯など外湯めぐりも徒歩圏です。

Q. 食事はどのような内容ですか。

A. 漁師でもある大旦那が目利きした瀬戸内の旬の魚を、若旦那が調理する魚づくしの会席です。刺身・焼き物・椀物など、その日の海に応じた献立が完全部屋食で供されます。親子二代の仕事を静かな座敷で味わえます。

Q. 子ども連れでも利用できますか。

A. 利用できますが、大正時代の木造建築のため音を完全には遮れず、バス・トイレは共同利用です。予約時に子どもの年齢を伝える案内があります。大浴場や大規模施設の賑わいを求める家族旅より、静けさを重んじる旅に向きます。

Q. アクセスと駐車場は。

A. 道後温泉駅より徒歩約5分、道後温泉本館まで徒歩約1分です。車の場合は松山ICより約20分で、屋外に4台分の駐車場(880円・要予約)があります。門限は23時です。

本記事の参考情報

旅館 常磐荘 公式サイト — 客室・湯・料理・料金の一次情報
道後温泉公式エリアガイド — 道後の外湯と町の案内
Wikipedia: 道後温泉 — 湯の歴史と地理の背景

編集部から

道後には、大規模で華やかな宿が数多くある。そのなかで常磐荘を単館として取り上げたのは、湯町の路地に大正の木造をそのまま残し、親子で湯守の代を継ぐという、いまや得がたい一軒の姿を記しておきたかったからだ。四室しかないという事実は、弱みではなく、湯と食と静けさを客に独り占めさせるための構えでもある。梅雨が明け、湯気の立ちのぼる季節。道後の湯にじっくり浸かる旅を考えるなら、この路地の一軒を一度は訪ねてみたい。次はどの湯町の、どんな一軒を訪ねましょうか。