梅雨が明けて、瀬戸川の水音がいちだんと澄む頃。飛騨古川の白壁土蔵に沿って歩けば、八ツ三館の障子明かりが川端に静かに灯る。安政の頃、越中八尾から移り住んだ三五郎が料理屋を開き、屋号に故郷の「八」と名の「三」を残した。以来八代、百七十年を継いできた料亭旅館である。明治・大正・昭和の建物を今に残し、うち明治三十八年築の招月楼は国の登録有形文化財に指定されている。観光地化した高山の喧噪とは別の、川端の宿の今を、一軒だけ深く訪ねたい。
※ 目安価格は公開販売価格の集計に基づく参考値で、実際の予約料金とは異なります。1泊2名利用時の1室あたり料金(税込)です。

Media Picks Score: 95 / 100 21室、料亭旅館。目安価格 ¥80,000〜¥111,000 / 泊 (2名1室・通常期)
越中八尾の三五郎が、川端に残したもの
八ツ三館の歴史は、安政の頃にさかのぼる。越中八尾から飛騨古川に移り住んだ三五郎という人が、料理屋を開いたのがはじまりと伝わる。屋号の「八」は故郷の八尾から、「三」は名の三五郎から。土地の言葉でながく「やつさん」と呼ばれてきた。五代目の頃には、養蚕で栄えた古川にあって、野麦峠を越えて信濃の製糸場へ向かう女工たちの差配の場ともなったという。瀬戸川と白壁土蔵の町並みそのものが、この宿の来歴と分かちがたく結ばれている。
現在は八代目の女将が宿を継ぐ。代々が嫁ぐように代を重ねてきたその継承の重みは、磨き込まれた廊下の艶や、調度の据え方の落ち着きに、言葉以上に表れている。
明治・大正・昭和を残す三棟
八ツ三館の建築は、ひとつの様式に閉じない。三棟がそれぞれ別の時代の意匠をまとい、その総体が宿の輪郭をなしている。
玄関を入って最も古いのが招月楼。明治三十八年、宮大工の手で建てられた木造で、国の登録有形文化財に指定されている。五室はいずれも間取りが異なり、囲炉裏のある「恵比寿」、六種の楓を望む「大黒」、寺の甍を借景にする「布袋」と、部屋ごとに別の景色が用意される。柱の面取り、欄間の透かし、障子の桟割りに、明治の宮大工の手仕事がそのまま残る。
観月楼は昭和五十九年に建て替えられた棟で、二階に六室、三階に湯を望む三室を構える。光月楼は数寄屋造りで、客室露天を備えた三室と広間を持つ。古いものを残しながら、時代に応じて建て継いできた——その重層が、八ツ三館の建築を語るうえで欠かせない。

滞在の体験 — 川音と障子と、飛騨の膳
招月楼の座敷に通されると、まず縁先の庭が目に入る。書院の障子を引けば、楓の枝が低く差しかかり、その向こうに古川の甍が連なる。床の間には掛軸、卓上には飛騨の漆。室内に過剰な飾りはなく、建物そのものの寸法と、外の緑が主役になるよう整えられている。夜は行灯のひかりが廊下を照らし、磨かれた板の上に障子の格子影が落ちる。
湯は、光月楼の客室露天と、館内の内湯・露天で楽しめる。梅雨明けの庭は緑が深く、石組みのあいだに苔が湿りを帯びる。檜と石の湯船に身を沈めれば、聞こえてくるのは瀬戸川を渡る風と、葉ずれの音ばかりである。
食は、この宿の核心といってよい。五人の料理人が、飛騨の季節を一椀ずつ仕立てる。柱は飛騨牛と、清流に育つ川魚。地元の生産者から届く野菜や、宿みずからの畑のものを織り交ぜ、献立は土地と季節に沿って動く。観光のついでの食事ではなく、食そのものを目的に訪ねるに足る一軒である。

集約レビューが映すこの宿の本質
公開レビューデータを集計すると、この宿で一貫して支持されているのは、建物の風格と料理の質、そして女将を中心とした接客の落ち着きである。文化財の座敷に泊まる体験そのものが評価の軸となり、会席の品数と飛騨牛の仕立てに高い満足が見て取れる。
一方で、明治の木造を残す宿であるがゆえに、段差や廊下の構造には現代のホテルのような均質さはない。設備の新しさや動線の効率を第一に求める旅程では、価値観が合わないことも考えられる。建物の古さを「不便」ではなく「来歴」として受け取れるかどうかが、この宿との相性を分ける。
立地と周辺 — 瀬戸川と白壁土蔵の町
八ツ三館が建つのは、飛騨古川の中心、瀬戸川沿いの一角である。白壁土蔵が連なる町並みに、初夏には数百匹の鯉が放たれ、川面に色を散らす。古川祭の起し太鼓で知られる土地でもあり、町そのものに祭礼と職人の記憶が息づく。高山からは鉄道でおよそ十五分。喧噪を離れ、川端の宿に静けさを求める旅に、この距離感はちょうどよい。
こんな旅人に
- 和の建築に造詣があり、文化財の座敷に泊まる体験を旅の主目的に据えたい四十代以上の夫婦
- 飛騨牛と川魚を軸にした会席を、観光のついでではなく目的として味わいたい人
- 観光地化した高山ではなく、静かな川端の町でゆっくり一泊したい旅程
- 建物の段差や古さを「来歴」として楽しめる、和の宿に慣れた旅人
具体情報
- 所在: 岐阜県飛騨市古川町、瀬戸川沿い
- 最寄り駅: JR高山本線 飛騨古川駅から徒歩約5分
- 客室数: 21室(招月楼5室・観月楼9室・光月楼ほか)
- 建築: 招月楼=明治38年(1905)築・国登録有形文化財/観月楼=昭和59年(1984)再建/光月楼=数寄屋造・客室露天3室
- 創業: 安政期(江戸末期)、八代続く料亭旅館
- 食事: 飛騨牛・川魚を軸にした飛騨の会席
- 湯: 内湯・露天のほか、光月楼に客室露天3室
Media Picks Score
95 / 100 — 評価の内訳は、立地(瀬戸川沿いの町並み中心)/建築(明治の登録有形文化財を含む三棟)/体験(文化財の座敷と客室露天)/料理(飛騨牛・川魚の会席)/編集適合度(百七十年の継承と地域文化の保全)の各面で高く、当媒体が一軒深く取り上げるに足る宿と判断した。
よくある質問
Q. ベストシーズンはいつですか?
A. 梅雨明けから初夏にかけて、瀬戸川に放たれた鯉と白壁土蔵が最も映える時季です。緑の深い庭と客室露天の取り合わせも、この頃がよく合います。秋は飛騨の紅葉と新蕎麦が重なり、招月楼の借景の楓が色づきます。静けさを求めるなら、観光客の落ち着く晩秋の平日を当媒体は推します。
Q. 子連れでも泊まれますか?
A. 明治の木造を残す宿で、廊下や座敷には段差が残ります。落ち着いた大人の滞在を主とする宿のため、幼児連れの旅程には必ずしも向きません。和の様式に慣れた年長の家族であれば、文化財の座敷で過ごす体験そのものが旅の記憶になります。予約時に部屋の構造を確認しておくとよいでしょう。
Q. 食事はどのような内容ですか?
A. 飛騨牛と川魚を軸に、五人の料理人が季節の飛騨の食材を会席に仕立てます。地元の生産者から届く野菜や、宿の畑のものを取り合わせ、献立は土地と季節に沿って動きます。食を旅の主目的に据えても応えられる構成です。アレルギーや苦手な食材は、予約時に相談できます。
Q. アクセスは?
A. JR高山本線・飛騨古川駅から徒歩約5分、瀬戸川沿いの町の中心に建ちます。高山駅からは鉄道でおよそ15分。名古屋方面からは特急ひだ、首都圏からは北陸新幹線・富山経由でも入れます。車の場合は中部縦貫自動車道・高山ICが目安になります。
Q. 和の宿に慣れていなくても楽しめますか?
A. 建物の古さや段差を「不便」ではなく「来歴」として受け取れる旅人であれば、はじめての本格的な料亭旅館として記憶に残る一軒になります。逆に、最新設備や効率的な動線を第一に求める場合は、価値観が合わないこともあります。何を旅に求めるかで相性が分かれる宿です。
本記事の参考情報
・飛騨市公式観光サイト「飛騨の旅」 — 飛騨古川・瀬戸川周辺の観光情報
・Wikipedia: 飛騨市 — 古川の町並みと古川祭の歴史的背景
編集部から
百七十年、八代。八ツ三館が残してきたのは、建物の古さそのものではなく、それを使い続け、建て継いできた時間の連なりである。明治の宮大工の座敷に泊まり、飛騨の会席を一椀ずつ味わう一夜は、観光地を巡る旅とは別の充足をもたらす。瀬戸川の水音を枕に、白壁の町に灯る障子明かりの内側で過ごす時間を、和の宿に親しんだ読者にこそ訪ねてほしい。次は、飛騨の別の谷に残る一軒を、同じ深さで訪ねてみたい。