盛夏の打ち水に濡れた旅館の玄関で、一段高い上がり框は、街の喧噪と宿の静けさを分ける結界として、いまも黙って客を迎えている。日本の旅館の玄関は、上がり框・式台・帳場格子という設えによって、外と内の境を客に告げてきた。本稿では、その意匠の継承を、京都・群馬・兵庫の三軒の名旅館に訪ねる。玄関という一間に宿るのは、家の格であり、そして客を迎える作法そのものである。框の高さ一段、格子の目一つに、幾代もの主が守ってきた「ここから先は宿の内」という無言の告知が畳み込まれている。

※ 目安価格は公開販売価格の集計に基づく参考値で、実際の予約料金とは異なります。1泊2名利用時の1室あたり料金(税込)です。

玄関という結界、その成り立ち

上がり框とは、玄関の土間と床の境に横たえられた、あの一本の化粧材をいう。履物を脱ぎ、框に手をつき、一段上がる。その所作のあいだに、客は道中の埃を落とし、宿の客としての顔に改まる。框の高さは、家の格をそのまま映してきた。低く抑えれば老いた客にもやさしく、高く取れば式台を要し、玄関はいっそう改まる。式台は、駕籠や供を伴う賓客を迎えるために設けられた一段で、いわば玄関の中の玄関である。

そして帳場。帳場格子の細い縦桟は、内と外を視線だけでゆるやかに隔てる。番頭は格子越しに客の到着を察し、框の前へ迎えに出る。格子は壁のように遮らず、簾のように曖昧にもしない。見え、そして隔てる——この two-way の呼吸こそ、日本の宿がつくり上げた結界の妙であった。框を上がり、式台を経て、帳場の格子に迎えられる。玄関の数歩のうちに、客は静かに「宿の内」へと運ばれてゆく。以下の三軒は、その意匠を代替わりのたびに手入れし、今日まで継いできた宿である。

一、柊家 — 京都・麸屋町姉小路

玄関に「来者如帰」の扁額を掲げ、式台の一段が、訪う者を家人のように迎え入れる一軒。

Media Picks Score: 93 / 100  28室、京町家の数寄屋旅館。

目安価格 ¥183,000–¥255,000 / 泊 (2名1室・通常期)


柊家 — 京都・麸屋町姉小路 · 玄関に掲げられた「来者如帰」の扁額と下地窓、行灯
PHOTO: 柊家 — 公式サイトを見る →

麸屋町姉小路を上がった一角、柊家は文政元年(1818)の創業から二百年余りを、この地で数え続けてきた宿である。玄関を入ると、正面に「来者如帰」——来る者、帰るが如し——の扁額が掲げられている。我が家に帰ったように寛いでほしいという、代々の主の願いを一枚に集めた言葉であり、この宿では玄関そのものが客への挨拶になっている。式台の一段はことさら高くはない。だが低い框を上がるその半歩に、外の京の往来と、内の静けさとが、はっきりと分けられる。

玄関脇の下地窓から漏れる淡い光、置き行灯の灯り、季の花一枝。迎えの設えは飾り立てず、しかし一分の隙もない。数寄屋の細い格子と土壁が、客の目をそっと奥へと導く。川端康成が定宿とし、各界の人士に愛されてきたのも、この玄関が語る「格」ゆえであろう。框を上がった瞬間に、旅の緊張がほどけ、客の顔になる——柊家の玄関は、その転換の作法を今も静かに守り続けている。

  • 所在: 京都府京都市中京区麸屋町姉小路上ル中白山町277
  • 創業: 文政元年(1818)
  • 客室: 28室(数寄屋造り)
  • 玄関の意匠: 「来者如帰」の扁額、式台、下地窓
  • アクセス: 地下鉄「京都市役所前」駅から徒歩約5分

二、積善館 本館 — 群馬・四万温泉

朱塗りの慶雲橋を渡った先に、元禄期の木造玄関が構える。橋そのものが結界となった一軒。

Media Picks Score: 89 / 100  22室、元禄創業の湯宿。

目安価格 ¥31,000–¥106,000 / 泊 (2名1室・通常期)


積善館 本館 — 群馬・四万温泉 · 朱塗りの慶雲橋越しに望む元禄期の木造玄関
PHOTO: 積善館 本館 — 公式サイトを見る →

四万川の谷あいに立つ積善館の玄関は、少し変わっている。門でも塀でもなく、朱塗りの慶雲橋が、俗と宿とを分ける結界の役を担うのである。橋を渡りきると、元禄七年(1694)建築と伝わる本館が正面に構える。日本最古の木造湯宿建築ともいわれ、群馬県の重要文化財に指定された建物だ。谷風に晒された柱や梁は飴色に沈み、玄関の敷居をまたぐ足の裏に、三百年余の時が伝わってくる。

橋を渡り、框を上がる——ここでは境を越える所作が二度くり返される。それだけに、内へ入ったときの守られた感覚は深い。帳場まわりに残る太い黒光りの木組みは、代を重ねて磨き継がれたもので、湯治客を迎えてきた宿の骨格をそのまま今に伝える。奥には大正ロマンの香り漂う「元禄の湯」が控え、アーチ窓から差す光が石造りの湯船を照らす。玄関から湯まで、どこを歩いても建物そのものが客に来歴を語りかける、稀有な一軒である。

  • 所在: 群馬県吾妻郡中之条町四万甲4236
  • 本館建築: 元禄七年(1694)建築と伝わる/群馬県指定重要文化財
  • 客室: 22室(本館)
  • 玄関の意匠: 慶雲橋を渡って至る木造玄関、飴色の帳場まわり
  • アクセス: JR「中之条」駅からバス約40分

三、三木屋 — 兵庫・城崎温泉

昭和二年築の数寄屋が登録有形文化財。玄関を入れば、視線はそのまま三百坪の庭へ抜ける。

Media Picks Score: 91 / 100  16室、登録有形文化財の数寄屋旅館。

目安価格 ¥68,000–¥112,000 / 泊 (2名1室・通常期)


三木屋 — 兵庫・城崎温泉 · 夕暮れに障子が灯る登録有形文化財の数寄屋建築と庭
PHOTO: 三木屋 — 公式サイトを見る →

城崎の柳並木を抜けた奥に、三木屋は建つ。創業は約三百年、現存する木造建築は昭和二年(1927)の普請で、国の登録有形文化財に認められている。玄関の格子戸を引くと、視線は式台と帳場を越え、そのまま三百坪の日本庭園へと抜けてゆく。玄関を「入口」ではなく「庭へと続く一続きの座」として構えた、数寄屋の思想がここにある。框の低さも、客をやわらかく招き入れるための寸法である。

この宿は、志賀直哉が定宿とし、名作「城の崎にて」が生まれた場所として知られる。文豪が眺めたであろう庭は、玄関に立った瞬間から客のものになる。二〇一三年の大規模な手入れでロビーや大浴場は現代の使い勝手に改められたが、玄関から庭へ抜ける軸線と、数寄屋の骨格はそのまま守られた。継ぐべきものと改めるべきものを見極める——その分別こそが、登録有形文化財の宿を今の宿として生かしている。玄関の一歩が、そのまま文学の記憶へ通じる一軒である。

  • 所在: 兵庫県豊岡市城崎町湯島487
  • 建築: 昭和二年(1927)築の木造建築/国の登録有形文化財
  • 客室: 16室(三百坪の日本庭園を擁す)
  • 玄関の意匠: 格子戸から庭へ抜ける軸線、式台、帳場
  • アクセス: JR「城崎温泉」駅から徒歩約15分

三軒に通う一本の筋

京の町家、四万の谷、城崎の湯町。三軒の玄関は、置かれた土地も、越えるべき境の形も異なる。柊家は扁額の言葉で、積善館は朱の橋で、三木屋は庭へ抜ける軸線で、それぞれに「ここから先は宿の内」を客へ告げる。だが根にあるものは一つである。框を上がり、格子に迎えられ、客の顔に改まる——その静かな転換を、いかに美しく、いかに自然に運ぶか。公開レビューデータを集計しても、これら三軒は玄関から始まる設えの佇まいに高い評価が集まる宿として確認できた。

玄関は、宿がもっとも初めに客と交わす言葉である。派手な看板も、大きな身振りもいらない。框の高さ一段、格子の目一つ、掲げられた一枚の額。その慎ましい意匠に、幾代もの主が守ってきた家の格と作法が畳み込まれている。旅の初めに、その一間の静けさを味わうところから、本当の滞在は始まるのだと思う。

よくある質問

Q. 上がり框と式台は、どう違うのですか。

A. 上がり框は、玄関の土間と床の境に渡した化粧材で、履物を脱いで一段上がるための横木を指します。式台は、その框の手前にもう一段低く設けた板の間で、駕籠や供を伴う賓客を丁重に迎えるための座です。式台を備えた玄関ほど格が高いとされ、本稿の三軒はいずれもこの改まった構えを今に伝えています。

Q. 帳場格子は何のためにあるのですか。

A. 帳場格子は、番頭が控える帳場と客の動線をゆるやかに隔てる細い縦桟の格子です。壁のように視線を遮らず、格子越しに客の到着を察して框の前へ迎えに出られるよう工夫されています。見えつつ隔てるという曖昧な境こそ、日本の宿が磨いてきた「結界」の要といえます。

Q. 建物の古い旅館でも、年配の客は玄関で不便を感じませんか。

A. 框の高さは家の格を映すと同時に、客への配慮でもあります。本稿の三軒はいずれも框を低めに抑え、上がりやすさに心を配っています。段差や履物の扱いに不安がある場合は、到着時に帳場へ一言添えれば、手を貸してもらえます。

Q. 建物が文化財の宿は、設備が古く不便ではありませんか。

A. 積善館 本館は群馬県の重要文化財、三木屋は国の登録有形文化財ですが、いずれも継ぐべき意匠を守りつつ、水まわりや共用部は現代の使い勝手に手入れされています。歴史ある骨格と今日の快適さが両立するよう、代々の主が分別を重ねてきた宿です。

Q. 玄関の設えを味わうのに、良い時季はありますか。

A. 打ち水に玄関が濡れる盛夏は、框や敷石の陰影がもっとも美しく映る時季として編集部が推したい頃合いです。加えて、雪の京都、四万の紅葉、城崎の蟹の季と、玄関に立って外の景を振り返るたびに、季節の移ろいが宿の表情を変えていきます。

本稿の参考情報

京都観光Navi(京都市公式) — 京都の宿と文化の背景
中之条町観光協会 四万温泉 — 四万温泉の歴史と地理
城崎温泉観光協会 — 城崎温泉と登録文化財の宿

編集部から

玄関は、宿を選ぶ理由にはなりにくい一間かもしれない。だが到着のその半歩に、その宿の来歴と作法のすべてが凝縮している。框を上がり、格子に迎えられる——その所作を静かに味わえる宿は、滞在の隅々までが丁寧である。次に旅館の暖簾をくぐるとき、まずは足元の框に目を落としてみてはいかがだろう。あなたの記憶に残る玄関は、どの一軒だろうか。

次に読むなら

本稿で触れた宿

宿 エリア Score 客室 目安価格 玄関の意匠
柊家 京都・麸屋町 93 28 ¥183–255k 「来者如帰」の扁額と式台
積善館 本館 群馬・四万温泉 89 22 ¥31–106k 慶雲橋を渡る元禄の木造玄関
三木屋 兵庫・城崎温泉 91 16 ¥68–112k 庭へ抜ける軸線と格子戸