盛夏の渓に蝉の声が反響し、瀞峡の緑が幾重にも重なる季節、奈良の南、十津川村へ向かう。日本で初めて村ぐるみで「源泉かけ流し宣言」を掲げた最奥の里に、加水も循環もせぬ湯を今も守り続ける一軒がある。湯泉地温泉の谷筋に離れを九つ配し、全室が源泉かけ流しの露天風呂と内湯を備える「湯乃谷 千慶」。谷瀬の吊橋を北に控え、熊野川源流の地形に抱かれたこの宿を、湯質、湯量、村の湯守の系譜とともに読み解く。

※ 目安価格は公開販売価格の集計に基づく参考値で、実際の予約料金とは異なります。1泊2名利用時の1室あたり料金(税込)です。


湯乃谷 千慶 — 奈良県吉野郡十津川村・湯泉地温泉、離れ九棟の全景と渓の緑
PHOTO: 湯乃谷 千慶 — 公式サイトを見る →

湯泉地の谷と、村ぐるみの宣言

十津川村は面積 672 平方キロ、日本一広い村として知られる。北から谷瀬の吊橋、湯泉地温泉、十津川温泉、上湯温泉と、三つの温泉が渓に沿って並び、その最北に近い湯泉地温泉が最古の湯である。開湯は千数百年前まで遡ると伝えられ、湯権現の社が今も湯の脇に残る。

湯を守る村の姿勢が公に示されたのは、2004年6月28日。村内二十五の温泉施設が足並みを揃え、「源泉かけ流し宣言」を発した。循環をしない、加水をしない、加温をしない、消毒をしない、再利用をしない――この五つを村ぐるみで守る取り組みは、当時、全国に例のないものだった。同月には湯泉地温泉のある十津川村を含む「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録され、湯と道の両方が同時に外へ知られていく年となる。宣言から二十余年、村の湯量は今も湯守が絶やさぬまま推移している。

泉質と湯量 — 加水を要さぬ 52.7℃

湯乃谷 千慶が引くのは、湯泉地の共同源泉である。泉質はアルカリ性単純硫黄泉、pH 8.9、源泉温度 52.7℃。硫黄の香がわずかに立ち、湯に浸かると肌の上を滑るような、いわゆる「美人の湯」の触感が伝わる。この温度が要である。四十度台半ばの適温に落とすとき、湯泉地は多くの宿で加水を必要としない。源泉から浴槽までの導湯距離が短く、外気に触れて自然と冷めるだけで湯船の適温に近づくためだ。加水を避けられる宿は全国でも少なく、この村がそれを制度として保証している意味は小さくない。

湯乃谷 千慶 — 離れの客室露天、渓に張り出した檜の浴槽
PHOTO: 離れの客室露天 — 公式サイトを見る →

離れ九棟、独立した湯房

宿は谷に沿って九棟の離れを配する構成である。母屋との距離を取り、それぞれの棟が独立した湯房を持つ。客室は「離れ 和洋スイート」「離れ 和プレミアム」「客室露天風呂付き離れ」の三段の系統に分かれ、いずれも露天と内湯の二種を備える。露天は渓側に張り出し、木々の擦れる音と川音のあいだで湯を使うことになる。棟から棟が見通せぬよう植栽と塀で切ってあり、二人の時間を主目的にする滞在に馴染む造りだ。

湯房を客室ごとに分けることには湯量の裏づけが要る。加水も加温もせぬ湯を、九棟同時にかけ流すには、それだけの自噴と導湯が続いていなければならない。この宿が離れ形式を採れる背景に、湯泉地の湯量が絶えていないことがある。

料理 — 山の食と川の食

食は宿の敷地内で仕上げる、離れの客室食を軸とする。品は季節で入れ替わり、盛夏には鮎の塩焼き、鹿肉の朴葉焼き、山菜の天麩羅、瀞の岩魚の焼き浸しなどが並ぶ。米は村内で育てた棚田米、水は湯泉地の湧水を用いる。素材の多くを村内および紀伊半島南部から取り、遠くから運ばぬことを一つの筋としている。器はこの地の陶や漆を選ぶ。派手な演出は少なく、味付けを深追いせず、素材の輪郭を残す構えである。

湯乃谷 千慶 — 湯泉地温泉の共同浴場と川沿いの湯棚
PHOTO: 湯泉地温泉 — 公式サイトを見る →

集約レビューが映すこの宿の像

公開レビューデータを集計すると、この宿への評価は湯質と離れの独立性に強く寄っている。加水加温をせぬ湯を客室で使えることへの言及が多く、次いで九棟の距離感、渓の音が挙がる。料理は素材寄りの構成であるため、濃い味付けや華やかな盛り込みを求める旅慣れの中では合わぬと感じる声もあり、その辺りは事前に宿の方針を了解して臨む方が良い。運営は少数精鋭で、応対は静かだが手を抜かない印象が繰り返し集約に現れている。

立地と周辺 — 参詣道の道中

宿は湯泉地温泉、村の北から中ほどの位置にある。北へ車で約 35 分に谷瀬の吊橋。長さ 297 メートル、高さ 54 メートル、生活用の吊橋としては日本有数の規模で、盛夏には吊橋から見下ろす熊野川の水色が青緑に沈む。南へ約 50 分で熊野本宮大社。世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の中枢であり、湯泉地はその道の湯宿としての役割を長らく担ってきた。最寄駅の JR 大和八木駅からは、日本一長い路線バスとして知られる奈良交通の八木新宮線で約 4 時間半、車では新宮駅から約 80 分、大阪市内から約 3 時間半である。距離のある宿ではあるが、その距離が湯の質と静けさを担保している面がある。

向く旅人、向かぬ旅人

  • 向く:
    混じり気のない湯を目当てにする夫婦・友人二人旅、参詣道の道中に静かな一泊を挟みたい人、離れ形式で他室と行き来のない滞在を望む人、素材を軸とした山と川の食を了解できる人
  • 向かぬ:
    複数の観光地を組み合わせて時間の短い旅程を組む人(村までの距離が長い)、幼児連れで客室露天の使用に不安のある家族、洋食中心や派手な演出の料理を望む人

具体情報

  • 所在: 奈良県吉野郡十津川村小原373-1(湯泉地温泉)
  • アクセス: JR大和八木駅から奈良交通八木新宮線で約4時間30分/新宮駅から車で約80分/大阪市内から車で約3時間30分
  • 客室: 全9室、すべて離れ形式(和洋スイート/和プレミアム/客室露天付き)
  • 湯: 湯泉地温泉、単純硫黄泉(アルカリ性低張性高温泉)、pH8.9、源泉温度52.7℃、全室源泉かけ流し(加水・加温・循環・消毒なし)
  • 食事: 離れの客室食、紀伊半島南部の素材と湧水を軸とする季節会席
  • 目安価格: ¥94,000〜¥134,000 / 泊(2名1室・通常期・1室総額)
  • 近隣: 谷瀬の吊橋まで車で約35分、熊野本宮大社まで約50分

Media Picks Score

95 / 100  湯質と湯量の裏づけ、離れ九棟という配置が村の宣言と結びついていること、参詣道の道中という立地の三点で高い評価に落ち着いた。

よくある質問

Q. 盛夏の湯泉地温泉、湯は熱く感じないか

A. 源泉は52.7℃だが、離れの露天は外気に触れ、川風の通る場所に浴槽が置かれるため、湯船に着く頃には四十度台の適温に落ちる。加水をしない設計ゆえに湯の触感が薄まらず、盛夏でも湯上りが長引かないという傾向が集約レビューにも現れている。

Q. 車を持たない場合のアクセスは現実的か

A. JR大和八木駅から奈良交通「八木新宮線」で湯泉地温泉バス停まで約4時間30分。日本一長い路線バスとして知られる路線で、途中下車と車窓の連続が旅そのものとして知られている。宿の送迎はバス停までとなるため、時刻の照合を予約時にしておくと確実である。

Q. 子連れでも滞在できるか

A. 客室露天が全室に付き、深さと段差があるため、幼児連れは大人の付き添いが前提となる。年齢制限は宿による指定があるため、事前確認を要する。夫婦・友人二人旅を主とする宿の性格である。

Q. 谷瀬の吊橋には歩いて渡れるか

A. 渡れる。長さ297メートル、高さ54メートルの吊橋は生活用の橋であり、歩行者は無料。踏板が細く揺れも大きいが、渓の中央から見下ろす熊野川源流の色は他に代えがたい。宿から車で約35分、朝の光の柔らかい時間帯を選ぶ人が多い。

Q. 参詣道の道中に組み込むなら何泊が適か

A. 湯泉地に一泊、熊野本宮に一泊の二泊構成が動きやすい。湯泉地は湯を主目的とする滞在、本宮は参詣を主目的とする滞在、と役割を分けると、それぞれの宿の性格が生きる。

本記事の参考情報

十津川村 公式観光サイト — 十津川温泉郷 — 源泉かけ流し宣言と三つの温泉の解説
Wikipedia: 十津川温泉郷 — 湯泉地・十津川・上湯の系譜
Wikipedia: 紀伊山地の霊場と参詣道 — 世界遺産登録と湯泉地の位置づけ

編集部から

湯を守るとは、量を守ることであり、量を守るとは、地形と山の水を守ることでもある。湯泉地の湯が二十余年にわたって加水を要さず湧き続けているのは、この村が水源となる山地を保ってきた結果であって、宿一軒の努力ではない。湯乃谷 千慶を訪ねることは、その村と山の系譜を辿る旅にもなる。参詣道の道中で、混じり気のない湯に体を沈める夜を、盛夏の一日に加えてみてほしい。

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