処暑の候、日の傾きがわずかに早まり、古い宿の帳場に夕影が差す時分になった。町家や造り酒屋から転じた木造の宿を訪ねると、玄関を入ってすぐ、黒光りする一枚の階段が二階へと段を重ねている。踏板の下は引き出しと戸棚に刻まれた、いわゆる箱階段(階段箪笥)である。この静かな家具が、宿の来歴をどう伝えてきたか。大階段の華やぎとは別の、実用と記憶の一段を辿ってみたい。
| 宿 | 所在 | 建物の来歴 | Score | 目安価格 |
|---|---|---|---|---|
| BYAKU Narai | 長野・奈良井宿 | 旧杉の森酒造(1793創業の造り酒屋) | 92 | ¥127–¥161k |
| 城下小宿 糀や | 岡山・津山城東 | 旧苅田酒造・御用酒屋(旧苅田家住宅は重文) | 88 | ¥62–¥71k |
| 旅館いち川 | 岐阜・恵那 大井宿 | 中山道大井宿の旅籠「角屋」 | 90 | ¥22–¥42k |
※ 目安価格は公開販売価格の集計に基づく参考値で、実際の予約料金とは異なります。一泊二名利用時の一室あたり料金(税込)です。Media Picks Score は公開レビューデータを集計し、立地・建物の来歴・季節性を編集部が加味した総合指標です。
箱階段とは、どんな家具だったか
箱階段は、その名のとおり階段の下を箱に仕立てた造作である。踏板の下に引き出しや戸棚を組み込み、限られた床の上に収納と昇降を兼ねさせた。商家や造り酒屋では、この抽斗に帳簿を納め、火打箱や種火を仕舞い、二階の座敷や物置へと段を昇った。表の間口が税の目安とされた時代、床の一寸を惜しむ町家にとって、箱階段は理にかなった家具であった。
やがて商いを畳み、あるいは湯宿へと転じた家では、この一枚の階段が帳場脇に残される。客が最初に目にする調度でありながら、それが商家の来歴を黙して語る。以下に辿る三軒は、いずれも造り酒屋・御用酒屋・旅籠として立った建物を核に持ち、箱階段が根ざした町家造りの記憶を、今の宿のかたちに受け継いでいる。
BYAKU Narai — 造り酒屋の帳場を継いだ宿(長野・奈良井宿)
寛政五年創業の造り酒屋が、蔵と梁と帳場の間取りごと、宿へと生まれ変わった。
Media Picks Score: 92 / 100 全12室、木造町家・酒蔵を改修した宿。
目安価格 ¥127,000–¥161,000 / 泊(2名1室・通常期)

中山道の宿場・奈良井宿の町並みに、寛政五年(1793年)創業の造り酒屋「杉の森酒造」があった。その主屋と蔵、周辺の町家をあわせて改め、2021年に宿として開いたのがこの一軒である。酒を仕込んだ蔵は、二階の床を抜いて梁組と土壁の陰翳を露わにした食事処となり、米を蒸した竈の据えられていた土間の記憶が、そのまま滞在の骨格に残る。全12室は、明治期の図面を頼りに商家の「ミセ/オク」「ハレ/ケ」の間取りを読み解いて設えられ、蔵座敷の厚い壁や太い梁が、酒屋であった来歴を静かに伝えている。
造り酒屋の帳場とは、まさに箱階段が据えられてきた場である。帳簿と火の始末を束ねた家の背骨を、この宿は建物ごと受け継いだ。奈良井宿は国の重要伝統的建造物群保存地区であり、木の町並みの只中に湯と食を置いた設計は、建築の保存活用としても評価が高い。
集約された評価の傾向。公開レビューデータを集計すると、酒蔵を活かした空間の趣、当地の酒と食を軸にした滞在の一体感に高い評価が集まる。一方で、非日常性を極めた造りゆえ、静けさや設えの独自性を求める人に向く宿であり、賑わいや利便を第一とする旅程には必ずしも馴染まない。
- 建物の来歴: 旧杉の森酒造(1793年創業の造り酒屋)ほか歴史的建造物を改修
- 客室数: 全12室(蔵・町家を改装、メゾネット型を含む)
- 所在: 長野県塩尻市大字奈良井(重要伝統的建造物群保存地区)
- 最寄り: JR中央本線・奈良井駅から徒歩約5分
- 開業: 2021年(酒蔵は現在も酒造りを継承)
城下小宿 糀や — 御用酒屋の町家に寄り添う宿(岡山・津山城東)
宝暦八年創業の御用酒屋の町家が、一日三組だけの静かな宿となった。
Media Picks Score: 88 / 100 全3室、重要文化財に隣り合う町家を改修した貸切の宿。
目安価格 ¥62,000–¥71,000 / 泊(2名1室・通常期)

美作の城下町・津山の城東地区に、宝暦八年(1758年)に酒造りを始めた苅田屋があった。江戸末期には津山藩の御用酒屋を務め、「諸白」の名で知られた城下屈指の大店である。その旧苅田家住宅は、なまこ壁の重厚な意匠と、城東の重要伝統的建造物群保存地区でも最大級の町家として、2016年に主屋以下十棟が国の重要文化財に指定された。この造り酒屋の町並みに寄り添い、付属する町家を改めたのが、一日三組限定の宿である。
御用酒屋の帳場に据えられた箱階段は、藩に納める酒の帳簿を束ねた家の記憶そのものであった。糀やの滞在では、造り酒屋を源流に持つ設えとして日本酒風呂が用意され、酒の町の来歴が湯にまで及ぶ。棟ごとに設けられた縁側風のテラスからは、城下町の静かな時間が眺められる。
集約された評価の傾向。公開レビューデータを集計すると、一棟を独占する静けさ、重文の町並みに身を置く趣、酒の町らしいもてなしへの評価が目立つ。件数は多くはないものの、貸切ゆえの落ち着きを求める夫婦旅・友人連れに向く。大浴場や大規模な館内設備を望む旅には馴染みにくい。
- 建物の来歴: 宝暦8年(1758年)創業の旧苅田酒造・御用酒屋。旧苅田家住宅は2016年に国重要文化財
- 客室数: 全3室(宿泊棟3棟+ラウンジ棟、一日三組の貸切)
- 所在: 岡山県津山市林田町(城東重要伝統的建造物群保存地区)
- 湯: 造り酒屋を源流とする日本酒風呂
- 開業: 2020年(歴史的町家を改修)
旅館いち川 — 中山道大井宿で唯一残る旅籠(岐阜・恵那)
寛永年間創業、大井宿四十一軒の旅籠でただ一軒、四百年の商いを今に継ぐ。
Media Picks Score: 90 / 100 全12室、中山道の旅籠を継ぐ料理旅館。
目安価格 ¥22,000–¥42,000 / 泊(2名1室・通常期)

中山道六十九次のうち、江戸から四十六番目にあたる大井宿。桝形が六か所も刻まれた宿場は、美濃十六宿で最多の四十一軒の旅籠を数えた。その旅籠のうち、今も客を迎えるのはただ一軒、寛永年間に「角屋」として起こった旅館いち川だけである。四百年近く、街道の商いを絶やさず継いできた宿は、文人墨客にも親しまれてきた。
旅籠の帳場もまた、箱階段が置かれた場であった。宿場を行き交う荷と人を捌き、宿帳と銭函を管理した家の記憶が、街道に面したこの一軒に息づいている。現在は料理旅館として、恵那の山里の食を会席に仕立てており、宿場町を歩いたのちに落ち着く一夜として、無理のない価格帯も相まって選びやすい。
集約された評価の傾向。公開レビューデータを集計すると、街道の歴史を身近に感じる立地、丁寧な会席、代を継ぐもてなしへの評価が高い。宿場歩きと食を主目的とする夫婦旅・友人連れに向く。大浴場や露天を最優先する湯治的な旅には、別の一軒が合う場合もある。
- 建物の来歴: 中山道大井宿の旅籠「角屋」を継ぐ。寛永年間創業、約400年
- 特徴: 大井宿四十一軒の旅籠で唯一現存し、現在は料理旅館
- 客室数: 全12室
- 所在: 岐阜県恵那市大井町(中山道大井宿)
- 最寄り: JR中央本線・恵那駅から徒歩約7分
よくある質問
Q. 箱階段は、大階段とどう違うのですか。
A. 大階段が座敷や広間を演出する見せ場の階段であるのに対し、箱階段は踏板の下を引き出しや戸棚に仕立てた実用の家具です。限られた床に収納と昇降を兼ねさせた町家・商家の造作で、帳簿や火種を仕舞う日々の道具として据えられました。華やぎではなく、暮らしと商いの記憶を宿すのが箱階段です。
Q. こうした宿を訪ねるのに向く季節はいつですか。
A. 木造の宿の陰翳を静かに味わうなら、人出の落ち着く処暑から晩秋、あるいは雪の気配が漂う頃が編集部の推す時期です。奈良井宿や津山城東、大井宿といった保存地区は、朝夕の光が町並みに落ちる時間帯にこそ趣が深まります。
Q. 食事にはどんな特徴がありますか。
A. いずれも土地の来歴に根ざした食が軸です。奈良井の宿は当地の酒と食を一体にした滞在、津山の宿は酒の町らしい設えと日本酒風呂、恵那の旅籠は山里の食を仕立てた会席と、宿ごとに趣が異なります。苦手な食材や体調への配慮は、事前に各宿へ相談するのが確実です。
Q. 子連れでも泊まれますか。
A. 一日三組の貸切となる津山の糀やは静かな夫婦旅・友人連れに向き、幼い子と過ごすには段差や設えに留意が要ります。恵那の旅館いち川は料理旅館として受け入れの幅が広く、宿場歩きと合わせた家族の旅にも向きます。詳細は各宿の案内で確認してください。
Q. 建物は文化財として登録・指定されていますか。
A. 津山の糀やが寄り添う旧苅田家住宅は、2016年に国の重要文化財に指定されています。奈良井宿・大井宿はいずれも国の重要伝統的建造物群保存地区で、町並みそのものが保存の対象です。宿ごとに指定・登録の区分は異なりますので、詳しくは各宿や自治体の案内をご覧ください。
本記事の参考情報
・奈良井宿観光協会 — 奈良井宿の町並みと歴史
・文化遺産オンライン(文化庁): 旧苅田家住宅 主屋 — 重要文化財の指定内容
・恵那市観光協会: 中山道 大井宿 — 宿場の歴史と旅籠
編集部から
箱階段は、床の一寸を惜しんだ町家の理と、帳簿と火を束ねた商家の日々を、たった一枚の家具に畳み込んだものである。造り酒屋、御用酒屋、街道の旅籠――商いのかたちは異なっても、その帳場に据えられた段は、家の来歴を黙して語ってきた。奈良井、津山、恵那。いずれの宿も、建物の記憶ごと湯宿へと段を継いだ一軒である。次に古い宿の玄関をくぐるとき、二階へ上がるその一段が、どんな商いから始まった家なのか。踏板の下の抽斗に、静かに耳を傾けてみたい。