白露のころ、三重・榊原に湧く柔らかな湯を訪ねる。清少納言が『枕草子』に「湯は ななくりの湯、有馬の湯、玉造の湯」と書き留めた三名泉の系譜を、いま最も濃く受け継いでいるのが、布引山地の裾に建つ大正八年創業の湯元 榊原舘です。榊原の湯は、伊勢神宮に詣でる前に身を清める「湯ごり」の場として千年を越えて使われてきました。この一軒は、その榊原温泉で唯一、館内と敷地内に自家源泉を持つ湯宿として、加温しない源泉そのままの湯船を守り続けています。三十一度という、湯としてはぬるい温度。その一点に、この宿の思想が集まっています。

※ 目安価格は公開販売価格の集計に基づく参考値で、実際の予約料金とは異なります。1泊2名利用時の1室あたり料金(税込)です。


湯元 榊原舘 — 三重県津市榊原町 · 総木造りの貸切展望露天風呂「天つ木の湯」、暮れなずむ布引山地を望む
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「湯ごり」の千年 — 伊勢の入口に湧いた湯

榊原の湯は、伊勢参りの前段として使われてきた湯です。奈良の都から伊賀を抜け、布引山を越えた先が榊原。ここが伊勢の入口にあたり、参拝の前にこの湯で身を清める「湯ごり」を済ませてから神宮へ向かうのが、当時の正式な作法とされました。榊が自生する土地であり、その榊が伊勢神宮の祭祀に用いられたことから「榊が原」と呼ばれ、いまの地名になったと伝えられています。

古い呼び名は「七栗の湯」でした。平安の都では温泉の代名詞として通り、鎌倉から室町にかけては恋の病を癒すいで湯として歌人たちに詠まれています。天正十六年(1588年)、全国的な湯治の流行を受けて、湯の神を祀る射山神社を一角に取り込んだ百室規模の湯治場がこの地に整いました。松尾芭蕉が奥の細道の旅を終えたのちに榊原で逗留した記録も残り、射山神社の境内には芭蕉翁反古塚が今も置かれています。射山神社の主祭神は大己貴命。温泉の神であると同時に良縁の神として慕われ、毎年2月11日には湯立神事が営まれます。

この地層の上に、湯元 榊原舘の百年が重なります。創業は大正八年四月四日。まず温泉を利用した入浴施設として現在地に開き、昭和三年に旅館を開業しました。以後の歩みは、そのまま増改築の年表になっています。昭和十四年に本館、三十一年に月の館、創業六十周年の五十四年に花の館。平成に入って日帰り湯「湯の庄」、夢の館、展望露天風呂「天つ木の湯」と続き、二〇〇五年に露天風呂付客室、二〇〇七年に湯の瀬川を臨むダイニング「厨草子」が加わりました。派手な建て替えではなく、湯を中心に据えたまま棟を足していく増築の作法が、この宿の顔をつくっています。現在は会長・社長・女将を前田家が担い、代を継いでいます。

まろみ源泉 — 三十一度で湯に浸かるということ

この宿の核は、加温しない源泉そのままの湯船にあります。源泉名は榊原温泉、泉質はアルカリ性単純泉で、湯は無色透明。源泉かけ流し風呂の泉温は31.2℃と、体温より低い。湧出量は毎分230リットルと180リットルの二筋です。公式には、榊原温泉で館内と敷地内の双方に自家源泉を持つのはこの一軒だけと記されています。

三十一度の湯は、入った瞬間はぬるい。ところが十分、十五分と身を置くうちに、肌の表面ではなく芯のほうから温度が上がってきます。宿はこのぬるい源泉と加温した湯とを交互に往復する入り方を案内しており、これが榊原の湯の作法として理にかなっている。大浴場「まろみの湯」は「むらさき」「もえぎ」、露天は「おそめ」「為之助」の二系統で、男女日替わり。入浴は6時から23時まで。源泉かけ流し風呂以外は源泉を加温したかけ流しです。

湯への手当ての細かさも記しておきたい。洗い場のカランとシャワーまで源泉を用いており(夢の館を除く)、湯上り処には無料の飲泉所が置かれています。毎日23時の営業終了後に全ての湯船の湯を抜いて清掃し、翌朝までに新しい源泉を張り直す。館では源泉の酸化還元電位をマイナス225と公表し、ロビーに測定機器まで備えています。数値を掲げること自体が、湯を商品ではなく管理対象として扱う姿勢の表明と言えます。

もう一つ、総木造りの貸切展望露天風呂「天つ木の湯」があります。午前7時から10時、午後12時から22時の区分で、一回50分・3,300円(税込)。全面が木のため石鹸やシャンプー類は使えず、バリアフリータイプ「天の原」のみ利用できます。谷の向こうへ日が落ちていく時間に一組で入るこの湯が、この宿でいちばん記憶に残る場所だと感じられます。


湯元 榊原舘 — 花の館の露天風呂付客室 · 丸型陶器風呂に源泉を注ぐ、竹垣と行灯に囲まれた客室露天
PHOTO: 湯元 榊原舘(客室露天風呂) — 公式サイトを見る →

客室と食卓 — 湯の瀬川に沿って

客室は全56室。1979年建設の花の館は10畳、露天風呂付客室は12.5畳で、五右衛門風呂・奥土さん風呂・寝湯・丸型陶器風呂と、湯船の意匠が部屋ごとに異なります。夢の館は12.5畳、その最上階に12.5畳+6畳の特別室。加えて電動ベッドを備えたバリアフリー客室が412号室と512号室にあり、これらは1999年と2003年に個別に設けられたものです。全館を一斉に新しくするのではなく、必要な部屋から手を入れてきた宿だと分かります。

食卓は、三重の土地を素直に並べています。会席は「七栗」「榊」「草子」の三段で、榊と草子には松阪牛の鉄板焼が入り、イチボ・ロース・ヒレの三部位を食べ分ける仕立て。造りには伊勢海老と鯛が加わります。伊勢海老は10月1日の解禁から4月末までの提供で、白露の時季に訪ねるなら、ちょうど解禁を待つ間合いにあたります。

この宿ならではの一品が「温泉野菜蒸し」です。抗酸化力の高い旬の野菜や果物を十種ほど月替わりで用意し、自家源泉で蒸し上げる。添えられるのは奥志摩の海水を真珠と真珠貝ごと炊き上げた「真珠塩」と、丸大豆と大麦の麹を一年以上寝かせた「醤(ひしお)」。飯は伊勢神宮の神田で台風に残った二株から生まれたイセヒカリを自家栽培し、国産米とブレンドして炊きます。食後の茶は、かりがねほうじ茶・かぶせ茶・玄米茶の伊勢茶ブレンド。酒には、地元榊原町産の五百万石を自家源泉で割水して地元の蔵に醸させた純米吟醸「榊の雫」が置かれています。湯を飲み、湯で蒸し、湯で酒を割る。源泉を献立の軸に据えるという一貫性が、この宿の食を他と分けています。夕食は17時30分から、朝食は7時から8時30分の間。会場は湯の瀬川を間近に臨むダイニング「厨草子」で、車椅子のまま食事ができる設えです。


湯元 榊原舘 — 湧き出る自家源泉と、松阪牛の鉄板焼および自家源泉で蒸す温泉野菜蒸しの膳
PHOTO: 湯元 榊原舘(自家源泉と会席) — 公式サイトを見る →

集約レビューが映すこの宿の本質

公開レビューデータを集計すると、この宿の評価はきわめてはっきりした形をしています。言及が集中するのは湯です。泉質と湯そのものへの評価は突出して高く、しかもほぼ否定的な声を伴わない。ぬるい源泉という、宿としては説明の手間がかかる特徴が、むしろ支持の中心になっている点が興味深いところです。飲泉所や源泉のカランといった細部まで含めて、湯に関わるものはおおむね好意的に受け止められています。

接遇についても評価は総じて高く、家族連れや年配の同行者を伴う滞在での言及が目立ちます。一方で、食事の会場や夕食まわりの評価はやや割れる傾向が見て取れます。また、建物の年季に触れる声も一定数あります。1939年の本館から積み重ねてきた増築の宿ですから、これは構造的な性格と考えるのが妥当でしょう。新築同様の設えを求めるなら向きませんが、湯を主目的に据える旅であれば、この宿の評価の重心は迷いなく湯の側にあります。

立地と周辺

宿は津市榊原町、布引山地(青山高原)の裾にあり、敷地のすぐ脇を湯の瀬川が流れています。最寄りは近鉄大阪線「榊原温泉口」駅で、駅と館の間は無料送迎バスが14時30分・15時30分・16時30分・17時30分の四便。電話での事前予約が要ります。車なら伊勢自動車道の久居インターが近く、100台分の無料駐車場があります。

伊勢神宮までは車で約60分。奈良や伊賀の側から入り、榊原で湯ごりをしてから伊勢へ向かうという古い道筋を、そのまま現代の一泊二日に写し取ることができます。白露から神無月にかけては、日中の暑さが抜けて谷筋の風が涼しくなり、露天の時間が最も長くとれる季節です。宿の隣には日帰り湯「湯の庄」があり、こちらは1990年の開設。温泉街としての榊原は小さく、夜は静かです。


湯元 榊原舘 — 湯の瀬川に沿って湯気の立つ露天風呂と、行灯の灯る客室の床の間
PHOTO: 湯元 榊原舘(湯の瀬川沿いの露天と客室) — 公式サイトを見る →

向く人 / 向かない人

  • 向く:
    湯質を第一に宿を選ぶ夫婦旅・友人連れ、伊勢神宮の参拝と湯治を一つの旅程に組みたい人、ぬるめの湯に長く浸かる入り方を好む人、バリアフリー客室や車椅子対応の食事会場を必要とする同行者がいる旅
  • 向かない:
    新築・全面改装の設えを求める人(1939年以降の増築を重ねた館です)、熱い湯に短く浸かりたい人(源泉かけ流し風呂は31.2℃)、犬や猫を連れた旅(介助犬を除きペットは入館できません)、タトゥーがある人(浴場の利用が断られます)

具体情報

  • 所在地: 〒514-1251 三重県津市榊原町5970
  • 最寄り駅: 近鉄大阪線「榊原温泉口」駅 — 館との間に無料送迎バス4便(14:30 / 15:30 / 16:30 / 17:30、電話予約制)
  • 客室数: 全56室(花の館 10畳・露天風呂付12.5畳/夢の館 12.5畳/最上階特別室 12.5+6畳/バリアフリー客室 412・512号室)
  • チェックイン: 15:00〜19:00 / アウト 〜10:00(夕食付は19:00までの到着)
  • 食事: 夕食 17:30〜/朝食 7:00〜8:30、ダイニング「厨草子」。会席は七栗・榊・草子の3段階
  • 温泉: アルカリ性単純泉・無色透明/源泉かけ流し風呂 31.2℃/湧出量 毎分230ℓ・180ℓ/大浴場 6:00〜23:00
  • 貸切展望露天風呂「天つ木の湯」: 50分 3,300円(税込)、午前7:00〜10:00・午後12:00〜22:00
  • 創業: 大正8年(1919年)4月4日/1928年に旅館を開業/2019年に創業100周年
  • 駐車場: 無料100台/Wi-Fi ロビー・客室・喫茶にて無料
  • その他: 入湯税150円(中学生以上)、施設使用料1,100円(3歳以上)、ペット不可(介助犬を除く)、年4回程度の館内点検休館あり

Media Picks Score

92 / 100 — 内訳の考え方は、湯(源泉の質・管理・独自性)、歴史(三名泉としての来歴と創業からの継承)、食(源泉を軸にした献立の一貫性)、立地(伊勢参詣路の要衝)、そして編集適合度の五軸です。湯と歴史で高い評価となる一方、建物の年季については評価が分かれるため満点には至りません。公開レビューデータの集計でも、湯への評価が全体を押し上げている構造がはっきり読み取れます。

目安価格 ¥60,000〜¥73,000 / 泊 (2名1室・通常期)

よくある質問

Q. 湯の効能は何が期待できますか?

A. 宿が掲げる適応症は、美肌効果のほかリュウマチ、皮膚病、婦人病、糖尿病です。泉質はアルカリ性単純泉で、湯上りに肌がなめらかになることから「美肌の湯」と呼ばれてきました。館では源泉の酸化還元電位をマイナス225と公表しており、ロビーに測定機器も置かれています。飲泉所は湯上り処に無料で用意されています。

Q. 源泉が31.2℃とのことですが、寒くありませんか?

A. 源泉かけ流し風呂は加温していないため、入った直後はぬるく感じられます。宿は10分以上、目安としては15〜20分身を置く入り方を案内しており、ぬるい源泉と加温した湯を交互に往復することで体の芯から温まる仕組みです。冬季は無理をせず10〜15分を目安にとされています。源泉かけ流し風呂以外の浴槽は源泉を加温したかけ流しです。

Q. 食事の内容と時間は?

A. 会席は「七栗」「榊」「草子」の三段階で、上位二つには松阪牛の鉄板焼(イチボ・ロース・ヒレ)と、伊勢海老・鯛を加えた造りが入ります。自家源泉で蒸す「温泉野菜蒸し」は全プラン共通の一品。夕食は17時30分から、朝食は7時から8時30分の間の提供です。アレルギーは可能な範囲で対応されますが、調理器具を介した微量の付着までは保証されません。伊勢海老は10月1日の解禁から4月末までの提供です。

Q. 子ども連れや高齢の同行者でも泊まれますか?

A. 泊まることができます。0〜2歳は施設使用料が無料、3歳以上は1,100円(税込)。電動ベッドを備えたバリアフリー客室が412号室と512号室にあり、電話での問い合わせが必要です。食事会場のダイニング「厨草子」は車椅子のまま食事ができる設えで、貸切展望露天風呂にもバリアフリータイプ「天の原」が用意されています。

Q. アクセスは?

A. 近鉄大阪線「榊原温泉口」駅と館の間で無料送迎バスが運行しています(14時30分・15時30分・16時30分・17時30分の4便、電話予約制)。車の場合は伊勢自動車道の久居インターが近く、無料駐車場100台分があります。伊勢神宮までは車で約60分。伊勢参りの前泊としても、参拝後の湯として組み込むこともできます。

編集部から

湯を主語にして書ける宿は、そう多くありません。多くの温泉宿では、湯は数ある設備のひとつとして紹介され、料理や客室の後ろに置かれます。この一軒はその順序が逆で、三十一度という扱いにくい源泉を中心に、入浴の手順も、蒸し物の献立も、酒の割水までもが組み立てられている。千年前に清少納言が名を書き留めた湯が、いまも同じ土地で同じ温度で湧いているという事実を、宿の側が守りに徹して受け止めた結果だと感じられます。白露を過ぎ、谷の風が涼しくなるころに、ぬるい湯へ長く身を置く時間を持ちたい人に、編集部が推したい一軒です。伊勢へ向かう道すがら、湯ごりという古い作法を一度なぞってみるのはいかがでしょうか。

本記事の参考情報

湯元 榊原舘 公式サイト — 沿革・源泉データ・客室・料理・施設概要
榊原温泉振興協会 — 温泉地としての泉質と宿の一覧
津の時間。(一般社団法人 津市観光協会) — 榊原温泉と湯ごりの地としての背景
Wikipedia: 榊原温泉 — 三名泉・射山神社・湯治場の歴史

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