秋分の頃、嘉瀬川の水が澄む谷あいに、砂の底から湯の湧く浴槽を守る宿があります。佐賀市富士町古湯、九室だけの「鶴の恩返し よみがえりの宿 鶴霊泉」。湯船の底に砂を敷き、その砂の中から源泉が直に湧き上がる——全国でも数の少ない足元湧出の湯を、この宿は屋号ごと受け継いできました。体温に近いぬる湯ゆえ、長く身を沈める湯治の作法がいまも成り立ちます。徐福の伝承に始まると語られる開湯譚、大正九年に斎藤茂吉が三週間を過ごした谷の記憶。名湯の一軒を、秋の入口に訪ねます。
目安価格 ¥44,000–¥58,000 / 泊(2名1室・通常期)
※ 目安価格は公開販売価格の集計に基づく参考値で、実際の予約料金とは異なります。1泊2名利用時の1室あたり料金(税込)。

砂の底から湧く湯
この宿の湯を語るには、まず「砂湯」という言葉の誤解を解く必要があります。砂をかけて身体を温める、あの砂蒸しではありません。公式サイトは、こう記しています。「鶴霊泉の砂湯は砂をかけるものではありません。岩から湧き出す古湯の温泉。その岩盤を守るために砂を敷いています。砂の中から湧きたつ温泉、それが鶴霊泉の“砂湯”です」。
つまり浴槽の底が源泉そのものであり、敷かれた砂は岩盤を守る覆いなのです。湯は配管を通らず、足元の砂を押し上げて浴槽に満ちる。空気にも金属にも触れないまま身体に届く湯を、温泉好きは足元湧出と呼び、数の少なさゆえに珍重してきました。腰を下ろせば、砂のあいだから細かな粒が立ちのぼるのが見えます。

古湯の湯は、体温に近い温度で知られます。佐賀県の公式観光サイトは、古湯温泉の温度を三四・五度から四三・六度と記しています。熱い湯に短く浸かる作法ではなく、ぬるい湯に長く身を委ねる作法。肩まで沈めても心拍は上がらず、三十分、四十分と過ぎていきます。宿は泉温そのものを公表していないため、正確な数値は館内に掲示された温泉分析書で確かめるのが確実です。泉質はアルカリ性の単純温泉で、公式サイトは効能として慢性リウマチ、神経痛、神経炎、運動器障害、外傷性障害後の治療、疲労回復を挙げています。
浴場は砂湯を擁する大浴場のほか、庭に面した「朝霧の湯」、四季の庭を眺める足湯があります。庭を独り占めにする貸切庭園風呂も設けられ、池では鯉が泳ぎます。なお「夕鶴の湯」は本稿執筆時点(2026年7月)で改装中と公式サイトに記されています。湯上りの休憩所は昭和初期に築かれた石積みで、湯と同じだけの時間を刻んできました。
鶴と徐福 — 谷の来歴
屋号の由来は、宿自身の言葉に拠れば、江戸時代に遡ります。足に傷を負った鶴が脛をこの湯に浸して傷を癒し、数日後に飛び去った。その跡から湯が湧いていたことから「鶴霊泉」と呼ばれるようになった、と公式サイトは伝えます。湯を守り、伝えていく——その思いを屋号に据えた宿である、という筋の通し方です。

谷そのものの開湯譚は、さらに遠くへ届きます。佐賀県の公式観光サイトによれば、約二千百年前、秦の始皇帝の命を受けて不老長寿の薬草を求めた徐福が、神のお告げによってこの湯を発見したと伝えられています。宿が湯を「始皇帝の時代から二千年の歴史を刻んだ」と紹介するのは、この伝承を踏まえてのことです。史実として確かめられる話ではありませんが、伝承が土地に根を張り、館内の解説にまで及んでいる事実のほうが、この谷では意味を持ちます。古湯と隣の熊の川は、昭和四十一年に国民保養温泉地の指定を受けました(指定は令和元年に取り消されています)。
近代の逗留者では、斎藤茂吉の名が谷に残ります。大正九年、茂吉はここに三週間滞在し、三十八首の歌を残しました。宿の庭には、そのうちの一首「うつせみの病やしなふ寂しさは川上川のみなもとどころ」を刻んだ歌碑が立ちます。庭には樹齢百三十年の老桜があり、初夏には河鹿が鳴き、蛍が飛ぶ。歌に詠まれた川上川——嘉瀬川の上流の呼び名——の水音は、百年前と変わらずに聞こえます。
九つの客室
客室は全九室。それぞれに「古希」「喜寿」「傘寿」「米寿」「白寿」といった年祝の名が与えられています。長寿を祝う名を部屋に配するのは、湯治の宿としての来歴とよく響き合う趣向と言えます。

別館二階の貴賓室「亀」は十五畳。公式サイトによれば、高円宮憲仁親王が宿泊されるにあたって設えられた部屋で、三十年以上前からの空間を保ちつつ、のちに展望貸切風呂が増設されました。庭園と嘉瀬川と山、その三つを一望できるのは館内でこの部屋だけとされています。同じ別館のスイート「鶴」も、川沿いに面した展望貸切風呂を備えます。
本館側には、庭に面した十二畳のプレミアム室が三室(黒・白・赤)。純和室「米寿」は、欄間、床の間、襖、畳と、公式サイトが「創業60年以来変わらない形」と記す部屋です。設えの新しさを競う宿ではありません。手を入れる場所と、入れずに残す場所を分けている——そう読み取れる館です。
湯で洗う鯉、佐賀の肉

食事の柱は四つ。佐賀牛、肥前さくらポーク、有田鶏、そして地物の海鮮。玄界灘と有明海を抱える県の宿らしい構成です。会席は庭を望む食事処で供され、離れには最大二十四名の大広間、館内には最大十二名の完全個室の中広間があります。
この宿を語るうえで外せないのが、名物の「鯉の洗い」です。公式サイトの説明によれば、鶴霊泉の源泉で湯引きをし、冷水で身を締める。この工程が鯉特有の匂いを抑え、旨味を引き出すのだといいます。湯を料理に使うという発想は、源泉を敷地の内に持つ宿にしか成り立ちません。川の魚を、川の谷の湯で洗う——古湯という土地の食べ方が、一皿に凝縮されています。
谷の位置と、周辺
宿は嘉瀬川と貝野川が合わさるあたり、古湯の湯宿が肩を寄せる一角にあります。佐賀大和インターチェンジから車で約十五分、佐賀市街から約三十分。公共交通なら、博多駅からJRで三十七分の佐賀駅へ出て、昭和バスの古湯温泉行きで四十六分。送迎はありません。
嘉瀬川ダムは車で約五分。三瀬高原の牧場まで約二十分、吉野ヶ里遺跡まで約三十五分。冬は天山スキー場が約二十分の距離にあります。古湯は九月の古湯映画祭、十月のおくんちと、秋に行事の集まる里でもあります。秋分を過ぎれば水は澄み、山は色を変えはじめます。
集約レビューが映すこの宿の本質
公開レビューデータを集計すると、評価の重心が明確に湯へ寄っている宿であることが読み取れます。八百件を超える評価が蓄積され、総合の水準は同エリアの中位を上回ります。特徴的なのは、砂湯という一点への言及が集中していること。設備の網羅性や新しさで満足度を積み上げる型ではなく、他で代替できない体験が全体の印象を牽引する型の宿です。
裏返せば、館の設えには相応の年月が刻まれています。昭和初期の石積み、六十年変わらぬ純和室、増改築を重ねた動線。それらを「古さ」と見るか「年輪」と見るかで、この宿の評価は分かれます。編集部としては、湯を目的に訪れる旅にこそ噛み合う一軒と位置づけます。
具体情報
- 所在: 佐賀県佐賀市富士町古湯875
- 客室数: 9室(庭側プレミアム3・純和室2・本館和室2・別館2)
- 湯: 天然砂湯(足元湧出)、大浴場、朝霧の湯、貸切庭園風呂、足湯 ※夕鶴の湯は改装中(2026年7月現在)
- 泉質: アルカリ性の単純温泉。古湯温泉の温度は34.5〜43.6度(佐賀県公式観光サイト)
- チェックイン: 15:00〜19:00 / アウト 〜10:00
- 食事: 会席(佐賀牛・肥前さくらポーク・有田鶏・地物海鮮)。名物は源泉で湯引きする鯉の洗い
- 日帰り入浴: 11:00〜15:00(最終入館14:00)/大人1,000円・子供500円。予約不可、メンテナンスによる不定休あり
- アクセス: 佐賀大和ICから車で約15分、佐賀市街から約30分。送迎なし
- 休館: 不定休
向く人 / 向かない人
-
向く:
ぬる湯に長く浸かる作法を知る人、足元湧出の湯を目当てに旅程を組む温泉好き、湯と食を軸に静かに二日を過ごす夫婦旅、佐賀・福岡から車で向かう週末の湯治 -
向かない:
熱い湯に短く浸かる入浴を好む人(湯温が体温に近く物足りなく感じられる)、新しい設備や大浴場の規模を重視する旅、公共交通のみで身軽に動きたい旅程(送迎がなく最終区間はバス)、館内で多彩に過ごしたい家族旅
Media Picks Score
93 / 100 — 内訳の考え方は、公開レビューデータの集計値(評価水準と蓄積量)を土台に、テーマ適合の編集評価を加えたものです。足元湧出の砂底浴槽という代替不能の一点、九室という規模と湯の量の釣り合い、古湯の谷における位置づけ、そして伝承と歌碑を含む来歴の厚み。いずれも高く評価しました。設備の新しさを求める旅には差し引きが生じますが、名湯という軸で測るかぎり、九州でも指折りの一軒です。
よくある質問
Q. 砂湯とは、砂をかけて温まる湯のことですか。
A. 異なります。公式サイトが明記するとおり、鶴霊泉の砂湯は身体に砂をかけるものではありません。浴槽の底の岩盤から源泉が湧いており、その岩盤を守るために砂を敷いている造りです。砂の中を通って湯が浴槽に満ちるため、足元湧出の湯として珍重されています。
Q. 湯の温度はどのくらいですか。
A. 古湯温泉の温度は、佐賀県の公式観光サイトによれば34.5〜43.6度です。体温に近いぬる湯として知られ、長く浸かる入り方が前提になります。宿は泉温を公式サイトに掲げていないため、正確な数値を確認するなら館内に掲示された温泉分析書を見るのが確実です。
Q. 日帰りでも砂湯に入れますか。
A. 入れます。日帰り入浴は11:00〜15:00(最終入館14:00)、大人1,000円・子供500円。予約は受け付けておらず、メンテナンスによる不定休があるため、訪ねる前に電話で確認するのが安全です。
Q. 訪れるならどの季節が良いでしょうか。
A. 秋分から晩秋にかけては嘉瀬川の水が澄み、庭の色が深まります。外気が下がるほど、体温に近い湯の長湯は心地よさを増します。初夏には河鹿が鳴き、蛍が飛ぶ庭となり、こちらも編集部が推す時季です。
Q. 子連れでも泊まれますか。
A. 本館一階の団体和室(楠・松)は公式サイトに子ども受け入れ可と記され、最大十名まで対応します。ただし館全体は静かに湯を楽しむ設えで、長湯を前提とするぬる湯は幼い子どもには退屈に映るかもしれません。年齢と旅の目的に応じて判断するのが良いでしょう。
本記事の参考情報
・鶴の恩返し よみがえりの宿 鶴霊泉 公式サイト — 湯・客室・料理・アクセスの各記載
・あそぼーさが(佐賀県公式観光サイト) — 古湯・熊の川温泉の泉質・温度・徐福伝承・斎藤茂吉の逗留
・Wikipedia: 古湯温泉 — 温泉地の地理と国民保養温泉地指定の背景
・環境省「国民保養温泉地」 — 現行の指定温泉地一覧(令和4年10月現在・全79か所)
編集部から
足元湧出の湯は、日本の温泉地でもごく限られた数しか残っていません。掘削と配管で湯を運ぶ技術が普及した後も、湧いた場所にそのまま浴槽を置き続けた宿だけが、この形を保っています。守るとは、増やさないことでもある——鶴霊泉の砂湯を前にすると、その当たり前が改めて見えてきます。秋分を過ぎ、谷の水が澄む頃。体温に近い湯に肩まで沈めて、時計を見ずに過ごす一夜を、名湯の一軒として推したいと思います。九州にはまだ、こうしてぬる湯を守る谷がいくつも残っています。
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・ぬる湯という時間 — 旅館の長湯が、なぜ三十度台の湯に身を委ねる作法を育ててきたか
・武雄と嬉野、佐賀の二湯に純重曹泉を継ぐ湯宿五軒 — とろりとした美肌の湯と肥前の里
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