処暑の候、湯治の里では、湯船に入る前に一杯を口に含む習わしがある。飲泉と呼ばれるこの作法は、温泉法にもとづく飲用の許可を受けた源泉にだけ許されたもので、浴用とは別の許可、別の適応症、別の禁忌が定められている。湯を外から浴びるだけでなく、内側にも通す——この二重の使い方こそが、名湯の里が湯を「養生」と呼んできた根拠だった。本稿は、湯治の里に残る三軒を手がかりに、湯を口に含むという行為が、なぜ薬効の一部に数えられてきたかを辿る。

宿 湯の里 Score 泉質 目安価格 飲泉の姿
泉岳舘 岐阜・湯屋温泉 90 単純二酸化炭素冷鉱泉 ¥62–¥75k 館内に飲泉場。源泉でコーヒーを点てる
西山温泉 慶雲館 山梨・西山温泉 92 ナトリウム・カルシウム-硫酸塩・塩化物泉 ¥68–¥85k 趣の異なる六種類の湯を全館源泉掛け流しで
俵山温泉 泉屋旅館 山口・俵山温泉 86 アルカリ性単純温泉(pH約9.8) ¥25–¥47k 徒歩1分の外湯「町の湯」に飲泉所

※ 目安価格は公開販売価格の集計に基づく参考値で、実際の予約料金とは異なります。1泊2名利用時の1室あたり料金(税込)です。

湯を口に含むという作法

飲泉は、湯に浸かることと同じ源泉を使いながら、まったく別の手続きの上に成り立っている。浴用の許可と飲用の許可は別で、飲用には飲用の適応症と禁忌症が個別に定められる。温泉の定義と利用のきまりは温泉法に置かれ、その運用は国と都道府県が担ってきた。つまり湯屋の壁に「飲泉」と掲げるためには、その一杯が体内に入るという前提で、源泉が改めて審査を受けている。

この手続きの重さが、飲泉という行為の性格を決めている。湯に入るのは誰でもできるが、湯を飲むのは、里が源泉の質を保証し、なおかつその保証を掲示として外に示した場所でしか許されない。飲泉場の一杯は、湯の味であると同時に、里の自己申告でもある。

そして飲泉は、たいてい湯治の作法とともに語られてきた。医薬品が乏しかった時代、湯は浴びるものであり飲むものであり、時に煮炊きに使うものだった。湯を余さず使い切るという発想が、里の暮らしのなかに自然にあったのである。

飲める源泉、という言い方

飛騨小坂の谷では、飲泉が宿の主題そのものになっている。ここに湧くのは高濃度の天然炭酸泉で、地元の観光協会も、天然の炭酸泉が全国的にきわめて限られることを掲げてきた。炭酸泉は口に含むと弾ける。湯の個性が、舌の上でいちばんはっきり分かる泉質と言える。

湯屋温泉 炭酸泉の宿 泉岳舘 ―― 飲める源泉としての炭酸泉

谷あいに七室。「炭酸泉は『飲める源泉』」と公式に掲げ、館内の飲泉場から源泉でコーヒーまで点てる一軒。

Media Picks Score: 90 / 100  岐阜県下呂市小坂町湯屋、全7室。

目安価格 ¥62,000–¥75,000 / 泊 (2名1室・通常期)


泉岳舘 — 岐阜・湯屋温泉 · くつろぎルームに並ぶ源泉コーヒー用のカップ棚
PHOTO: 湯屋温泉 炭酸泉の宿 泉岳舘 — 公式サイトを見る →

泉岳舘の源泉は単純二酸化炭素冷鉱泉。源泉温度は12.2℃という冷鉱泉で、炭酸ガスを保ったまま加温する技術を四代目が確立したと公式は記す。飲用については「保健所許可済み」と明記し、飲用適応症に胃腸機能の低下を、飲用禁忌症には「該当なし」を掲げる。館内には飲泉場が置かれ、くつろぎルームには客が選ぶカップが並ぶ。源泉で点てるコーヒー、源泉で仕立てる炭酸泉しゃぶしゃぶ——「飲む・浸かる・食べる」を宿の主題に据えた構えは、湯をひとつの食材として扱う姿勢に近い。大浴場を持たず、全室に炭酸泉の湯を引く小さな宿である。

具体情報

  • 所在: 岐阜県下呂市小坂町湯屋427-1
  • 客室: 全7室。2026年に全室が露天風呂付きに(大浴場なし、貸切露天風呂は無料・要予約)
  • 泉質: 単純二酸化炭素冷鉱泉(低張性・弱酸性・冷鉱泉/源泉温度12.2℃)
  • 飲泉: 館内に飲泉場。飲用適応症は胃腸機能低下、飲用禁忌症は該当なしと公式に掲示
  • チェックイン: 15:00〜 / アウト 〜10:00
  • アクセス: 高山ICより約40分。JR飛騨小坂駅からの送迎あり(要予約)。無料駐車場10台

湧出量を使い切らないという判断

湯を養生として使う里には、しばしば湯量への慎みが同居する。湯が豊かだから使い切るのではない。湯の状態を保つために、汲む量をあらかじめ抑えている——そう読み替えたほうが、湯守の言い分に近い。

甲斐の山中、南アルプスの懐に建つ古い宿は、その考え方を数字で示している。毎分約2,000リットルという湧出量に対し、実際に使うのは四分の一ほど。残りは大地に返す。この「使い切らない」という判断が、加温も加水もしない湯を、浴槽にもシャワーにも、そして口に含む一杯にまで行き渡らせている。

西山温泉 慶雲館 ―― 千三百年、湧き続ける湯を六つの浴槽へ

慶雲二年(705年)開湯。公式が「趣きの異なる六種類のお風呂」と記す、全館源泉掛け流しの山峡の宿。

Media Picks Score: 92 / 100  山梨県南巨摩郡早川町西山温泉、22室。

目安価格 ¥68,000–¥85,000 / 泊 (2名1室・通常期)


西山温泉 慶雲館 — 山梨・早川町 · 慶雲二年開湯、南アルプス山中に建つ宿の外観と新緑
PHOTO: 西山温泉 慶雲館 — 公式サイトを見る →

公式によれば、開湯は慶雲2年(西暦705年)。藤原真人が湯川のほとりで熱湯の噴き出す岩間を見つけたという発見譚を伝え、天平宝字2年(758年)には孝謙天皇が湯治に訪れたという伝説も残る。2011年には「世界で最も古い歴史を持つ宿」としてギネス世界記録に認定された。泉質はナトリウム・カルシウム-硫酸塩・塩化物泉、源泉52℃、自家源泉5本。効能に胃腸病と便秘を掲げ、公式は自然湧出泉と掘削自噴泉を組み合わせた「趣きの異なる六種類のお風呂」と記す。2026年春には改装を終え、湯治文化を伝える歴史資料室「慶雲の歩路」を新たに設けた。千三百年という時間を、資料として見せる構えに転じたわけである。

具体情報

  • 所在: 山梨県南巨摩郡早川町西山温泉
  • 客室: 22部屋(収容80名)
  • 泉質: ナトリウム・カルシウム-硫酸塩・塩化物泉(低張性アルカリ性高温泉/源泉52℃)
  • 湧出量: 毎分2,030リットル(掘削自噴1,630/自然湧出400)。使用は約四分の一に留める
  • 浴槽: 展望野天「望渓の湯」・渓流野天「白鳳の湯」・貸切野天「川音」「瀬音」・展望風呂「桧香の湯」「石風の湯」の六種類。加温加水なしの全館源泉掛け流しで、効能に胃腸病・便秘を掲げる
  • 開湯: 慶雲2年(705年)。2011年ギネス世界記録認定。2026年3月に改装オープン
  • アクセス: 身延駅から送迎バス(要予約、13:40頃発)。日帰り入浴は受け付けなし

飲む、入る、また飲む

飲泉がもっとも作法らしく残っているのは、湯治の時間割のなかである。長門の山あいにある俵山温泉は、湧出量の少ない良質の湯を守るため、旅館が内湯を持たないという決めごとを続けてきた。客は浴衣で外湯に通う。湯は宿の設備ではなく、里の共有財として扱われている。

この構えのなかで、飲泉は入浴の前後に置かれる。外湯の館内に飲泉所があり、宿の公式は「飲む→入浴→飲む」という順を示す。湯治の入浴サイクルは一週間を「一廻り」と数え、それを三度繰り返す「三日七廻り」として伝わってきた。飲泉は、その長い時間割のなかの、いちばん小さな単位にあたる。

俵山温泉 泉屋旅館 ―― 内湯を持たない宿と、町の飲泉所

江戸期からの木造家屋。徒歩一分の外湯「町の湯」に飲泉所があり、湯治の作法をそのまま案内する湯治宿。

Media Picks Score: 86 / 100  山口県長門市俵山、全室バス・トイレなしの純和室。

目安価格 ¥25,000–¥47,000 / 泊 (2名1室・通常期)


俵山温泉 泉屋旅館 — 山口・長門市 · 江戸期から続く木造二階建てと池のある庭
PHOTO: 俵山温泉 泉屋旅館 — 公式サイトを見る →

泉屋旅館が建つのは、千百年の歴史を持つと公式が記す俵山の湯町。客室は和室6畳・8畳・12畳の三種で、風呂も洗面も共有という古い湯治宿の造りをそのまま残す。時を重ねた飴色の柱、日の差す広縁——建物そのものが湯治場の時間を語っている。湯は徒歩約1分の「町の湯」と、徒歩約4分の「白猿の湯」。前者の館内には「正の湯泉」の飲泉所があり、胃腸の疾患に効くとされると公式は案内する。俵山の泉質はアルカリ性単純温泉、pHは約9.8。湯治の入浴作法と「三日七廻り」の考え方を、宿が自ら文章として掲げているところに、この一軒の姿勢が出ている。

具体情報

  • 所在: 山口県長門市俵山5139
  • 客室: 和室12畳(定員3〜6名)/8畳(1〜4名)/6畳(1〜3名)。全室バス・トイレなし(共有)
  • 泉質: アルカリ性単純温泉(pH約9.8)。俵山温泉には5つの源泉
  • 飲泉: 徒歩約1分の共同外湯「町の湯」館内に「正の湯泉」の飲泉所。「飲む→入浴→飲む」を公式が案内
  • 食事: 女将手製の日替わり料理と健康和朝食(希望者に雑穀米を用意)
  • アクセス: JR美祢線・長門湯本駅から車で約15分、バス「俵山温泉」下車徒歩約1分。駐車場20台無料

一杯の湯が語ること

三軒を並べてみると、飲泉の姿はずいぶん違う。館内の飲泉場から源泉でコーヒーを点てる宿があり、湧く湯の四分の一だけを六つの浴槽に通す宿があり、宿には内湯がなく、里の外湯の飲泉所を客に示す宿がある。共通しているのは、湯を宿の設備としてではなく、里の資源として扱っている点だろう。

飲泉には禁忌症も定められている。掲示を読み、体調に照らし、量を控える——その一連の慎重さこそが、養生という言葉の中身である。効くから飲むのではなく、飲み方を守るから効くとされてきた。処暑を過ぎ、日中の暑気がわずかに緩む頃は、湯治のまねごとを始めるのに悪くない時節である。冷えた炭酸泉をひと口含んでから湯に沈む。それだけの動作に、千年の作法が畳まれている。

よくある質問

Q. どの温泉でも湯を飲んでよいのですか。

A. 飲めません。飲泉は浴用とは別に飲用の許可を受けた源泉に限られ、許可のある施設は掲示によってそれを示しています。飲用の適応症・禁忌症も源泉ごとに定められており、掲示のない湯口や浴槽の湯を口にするのは避けるべきです。温泉の定義と利用の枠組みは温泉法に置かれています。

Q. 飲む量やタイミングに決まりはありますか。

A. 源泉ごとに掲示された量と回数に従うのが原則で、一度に多く飲むものではありません。俵山温泉 泉屋旅館の公式が示す「飲む→入浴→飲む」のように、入浴の前後に置く流れを案内する宿もあります。体調に不安がある場合や持病がある場合は、飲む前に医師に相談するのが確実です。

Q. 飲泉の味は泉質でどれくらい違うのですか。

A. かなり違います。泉岳舘の湯は単純二酸化炭素冷鉱泉で、口に含むと炭酸が弾けます。飛騨小坂では宿ごとに自家源泉を持つため、同じ谷でも成分や濃度が異なると地元は説明しています。硫酸塩・塩化物泉であれば塩気や苦みが立つなど、泉質の性格は舌のほうが早く気づきます。

Q. 飲泉のある宿は湯治向けの素朴な宿ばかりですか。

A. そうとは限りません。本稿の三軒でも、目安価格は2名1室で ¥25,000 台から ¥85,000 台まで開きがあります。共同外湯に通う湯治宿もあれば、全館を源泉で賄う滞在型の旅館もあり、飲泉の有無と宿の格は別の軸だと考えたほうが実情に合います。

Q. 処暑の頃に湯治の里を訪ねる利点は何ですか。

A. 山あいの湯治場は標高が高い場所が多く、朝晩の空気が先に秋へ傾きます。夏の疲れが出やすい時季でもあり、連泊してゆっくり湯に通う滞在と相性が良いと言えます。ただし山間の宿は道路事情に左右されるため、天候による通行止めの案内は事前に確かめておきたいところです。

本記事の参考情報

環境省「温泉の保護と利用」 — 温泉法・温泉の定義・国民保養温泉地の枠組み
飛騨小坂観光協会「天然炭酸泉」 — 湯屋温泉・飛騨小坂の炭酸泉と飲泉場の背景
早川町(山梨県) — 西山温泉が位置する町の基礎情報
ながと観光なび(長門市観光コンベンション協会) — 俵山温泉ほか長門市内の湯の里の案内

編集部から

湯を飲むという行為は、温泉の効能をいちばん直接に問う。掲示を読み、量を守り、体調に照らして控える——その面倒くささごと引き受けたときにだけ、湯は養生になる。今回の三軒は、いずれもその面倒くささを隠さずに公式へ書き記していた。書いてあるということは、守らせる意思があるということでもある。次は、湯を「食べる」側——温泉で炊く粥や豆腐、湯の花を使う膳を継ぐ宿を辿ってみたい。湯を使い切る里の知恵は、まだ膳の上にも残っている。

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