初秋の夕、山の宿の囲炉裏に炭が熾ると、その一軒の食の輪郭が立ちのぼる。自在鉤に吊るした鉄瓶が細く湯気を上げ、炉端に立てた串の先で岩魚が背をそらせていく——囲炉裏は、山里の湯宿が土地の恵みを最も素朴なかたちで供してきた場である。本稿は、炉端の炭火がなぜ山の膳の主役を焼いてきたのかを、自在鉤という道具と火の作法を軸に綴る。

※ 本文中の目安価格は公開販売価格の集計に基づく参考値で、1泊2名利用時の1室あたりのおおよその幅です。実際の予約料金とは異なります。

自在鉤という支度

囲炉裏の上、太い梁から垂れ下がる鉤を自在鉤と呼ぶ。竹や木の横木と組み合わせ、鍋や鉄瓶を掛ける高さを手元で上下させる仕組みである。魚の形をした横木——多くは鯛や鮒をかたどる——を押し下げれば鉤が上がり、火から遠ざかる。逆に引き上げれば鉤が下り、炭に近づく。火そのものの強弱ではなく、火との距離で加減を操るのが自在鉤の思想であり、薪から炭へ、湯から焼き物へと、一つの炉が幾通りにも働いた。

横木に水にまつわる魚を選んだのは、火伏せの願いを託したためと伝わる。木造の家に火を絶やさず抱えて暮らす山里にとって、囲炉裏は暖と煮炊きの中心であり、同時に用心の対象でもあった。自在鉤の一挙一動には、その両義がひそんでいる。

なぜ炭火が山の膳の主役だったか

山の谷に暮らせば、膳の主役はおのずと決まる。渓に岩魚と山女魚、林床に舞茸や香茸、畑の畦に餅の素となる糯米。海の魚が容易には届かぬ土地で、これらを最もうまく食べさせる術が炭火だった。塩を強めに打った川魚を串に刺し、炉端の灰に立てて炭から少し離す。俗にいう「遠火の強火」で、皮をこがさぬまま身の芯まで火を通し、余分な水気を静かに抜いていく。焼き上がるまでの長い時間は、そのまま炉を囲む者の語らいの時間でもあった。

茸は網に載せて香りを立たせ、餅は炭の縁であぶって膨らませる。いずれも火加減を細かく変える必要があり、自在鉤と炭の置き方がものを言う。囲炉裏の膳が素朴でありながら飽きないのは、素材が土地のものであること以上に、火を操る手の記憶がそこに残っているためだろう。初秋は、川魚の脂がのり、茸が出そろう季節。囲炉裏の炭火が最も似合う頃合いである。

囲炉裏を今に伝える三軒

炉端の作法を、しつらえとしてではなく日々の膳として続ける宿は、いまも各地の山あいに残る。ここでは土地も湯も異なる三軒を、簡潔に添える。

1. 湯西川温泉 本家伴久 — 栃木・湯西川温泉

かずら橋を渡った先の隠れ館で、平家お狩場焼きの炭火が炉端を照らす一軒。


湯西川温泉 本家伴久 — 栃木・日光市 · かずら橋の先に建つ平家直孫の宿、寛文六年創業
PHOTO: 湯西川温泉 本家伴久 — 公式サイトを見る →

湯西川は、壇ノ浦の後に平家の落人が隠れ住んだと伝わる谷である。その発祥の宿とされる本家伴久は、寛文六年(1666)の創業。夕餉どころへは吊り橋のかずら橋を渡って向かう趣向で、炉端では「平家お狩場焼き」と称して、岩魚や深山の幸を炭火で炙る囲炉裏会席が供される。四十一室の湯宿を貫くのは、山に隠れて火を囲んだ者たちの記憶である。目安価格は一泊二食二名で¥58,000〜¥93,000ほど。Media Picks Score: 92 / 100

2. 二岐温泉 大丸あすなろ荘 — 福島・二岐温泉

渓流に川床の岩風呂が湧く秘湯で、テーブルの囲炉裏に炭火を熾す一軒。


二岐温泉 大丸あすなろ荘 — 福島・天栄村 · 標高800mの渓流沿い、川床から湧く自噴の岩風呂
PHOTO: 二岐温泉 大丸あすなろ荘 — 公式サイトを見る →

二岐山のふもと、標高およそ八百メートルの渓谷にかかる二岐温泉。開湯は平安の世にさかのぼると伝わり、大丸あすなろ荘の当主は五十代を数える。日本秘湯を守る会の一軒で、天然の川床をそのまま浴槽にした自噴の岩風呂が名高い。膳には、炉端に据えた炭火で焼き物を炙る趣向が用意され、山の幸が素朴なまま供される。二十二室の静かな湯宿である。目安価格は一泊二食二名で¥17,000〜¥44,000ほどと、素朴さに見合う幅にある。Media Picks Score: 84 / 100

3. いろりの宿 かつら木の郷 — 岐阜・奥飛騨福地温泉

四千坪に十室の離れが点在し、囲炉裏の網で岩魚と茸、飛騨牛を炭火に委ねる一軒。


いろりの宿 かつら木の郷 — 岐阜・奥飛騨福地温泉 · 囲炉裏の網に岩魚・茸・飛騨牛を並べる炭火の膳
PHOTO: いろりの宿 かつら木の郷 — 公式サイトを見る →

奥飛騨温泉郷の福地は、古い民家と石畳が残る山里である。かつら木の郷は、その名のとおり囲炉裏を主題に据えた宿で、四千坪の敷地に十室の離れが散る。炉端の網に岩魚や香りの強い茸、飛騨牛を並べ、炭の遠火でじっくりと火を入れていく。串に刺した川魚を炉の灰に立てる古式の焼き方も残り、膳は山の実りをそのまま映す。奥飛騨の澄んだ水で育つ川魚の甘みが、炭火でいっそう際立つ。目安価格は一泊二食二名で¥57,000〜¥66,000ほど。Media Picks Score: 91 / 100

よくある質問

Q. 自在鉤とは何のための道具ですか。

A. 囲炉裏の上に垂らした鉤で、鍋や鉄瓶を掛ける高さを手元で上下させ、火からの距離で加減を操るための道具です。魚をかたどった横木を上下させて鉤の位置を変える仕組みで、横木に水の魚を選ぶのは火伏せの願いを託したためと伝わります。

Q. 囲炉裏の炭火では、どんな山の幸が焼かれますか。

A. 谷の渓で獲れる岩魚や山女魚、林床の舞茸や香茸、糯米から搗いた餅などが炉端の主役です。塩を打った川魚を串に刺して灰に立て、遠火の強火でじっくり炙るのが古くからの作法です。

Q. 囲炉裏料理は初秋に向く食べ方ですか。

A. 初秋は川魚に脂がのり、茸が出そろう頃合いで、炭火の膳が最も充実する季節と言えます。夜が冷え込みはじめる時期でもあり、炉の火を囲む時間そのものが山の宿の楽しみになります。

Q. 子ども連れでも囲炉裏の宿に泊まれますか。

A. 炉には炭火があり、離れや吊り橋など段差を伴う設えも多いため、乳幼児連れは各宿へ事前に相談するのが穏当です。宿ごとに対応が異なります。

本稿の参考

日本秘湯を守る会 — 山あいの湯宿と温泉地の来歴
Wikipedia: 囲炉裏 — 囲炉裏・自在鉤の構造と歴史の背景
日光旅ナビ(日光市観光協会) — 湯西川温泉の観光情報