梅雨明けの湯河原温泉は、藤木川の水音が一段と澄んで聞こえる。万葉集巻十四に「足柄の土肥の河内に出づる湯の」と詠まれたこの湯場の中心に、明治二十一年から一三七年を継いできた小さな宿がある。本館の三棟のうち二棟と門柱・石垣が国の登録有形文化財に指定された、客室十三室の旅館である。島崎藤村が長く逗留し、『夜明け前』の原案をこの宿の一番の部屋で練ったと伝わる、文人ゆかりの一軒を紹介する。

※ 目安価格は公開販売価格の集計に基づく参考値で、実際の予約料金とは異なります。一泊二名利用時の一室あたり料金(税込)です。


湯河原温泉 伊藤屋 — 神奈川県足柄下郡湯河原町宮上 · 明治二十一年創業、国登録有形文化財の文人宿
PHOTO: 湯河原温泉 伊藤屋 — 公式サイトを見る →

Media Picks Score: 95 / 100  客室十三室、登録有形文化財の老舗旅館。

目安価格 ¥59,000〜¥69,000 / 泊 (二名一室・通常期)

歴史と建築 — 大正の数寄屋が、いまも宿の核に

湯河原温泉は、奈良時代の万葉集にすでに名のある古湯である。巻十四・東歌に「足柄の土肥の河内に出づる湯の」と詠まれた湯場は、平安期以降は鎌倉武士の湯治場として、近世には熱海と並ぶ関東の名湯として知られた。藤木川は宿場の中心を流れる小さな川で、両岸に旅館が軒を連ねる景観は、明治以降のものに近い形でいまも残っている。

その藤木川の左岸、万葉公園の入口にあたる宮上の地に、伊藤屋は明治二十一年(一八八八年)に開業した。創業から一三〇年余、本館の三棟のうち二棟と門柱・石垣が、国の登録有形文化財に登録されている。残された本館の建物は、大正時代の数寄屋造りを核とする構成である。書院造りを伝える「一番」「二番」の部屋は、いずれも畳と障子と床の間を中心に据えた古典的な間取りで、現在も宿泊の用に供されている。令和五年には半個室仕様の食事処「天馬」が完成し、本館九室・新館四室の計十三室と合わせて、宿の体験を複数の時代と空間から選べる形となった。


伊藤屋 — 本館の数寄屋造り、登録有形文化財の客室と廊下
PHOTO: 伊藤屋 本館 — 伊藤屋の歴史を読む →

文人の宿として — 島崎藤村が「一番の部屋」に逗留した記憶

明治後期から昭和初期にかけて、湯河原は東京の文人たちが筆を進める場として愛された。伊藤屋には島崎藤村が幾度も逗留し、長編『夜明け前』の原案をこの宿の客室で練ったと伝わる。妻の静子が後に著した『ひとすじの道』には「先生は伊藤屋の一番の部屋を気に入り、私たちにとって終生忘れえぬ部屋となった」と記される。書院造りの「一番」は、いまも当時の佇まいを残し、宿泊客が泊まることのできる客室として保存されている。

文人だけでなく、政治史の場面でも伊藤屋の名は残る。昭和十一年の二・二六事件では、当時伊藤屋の別館であった「光風荘」に内大臣牧野伸顕が滞在中、襲撃を受け光風荘は全焼している。襲撃前に河野大尉らが偵察として宿泊した本館の客室は、当時の趣を残したまま現在も使われていると伝えられる。文化財の価値は、建物の年代だけでは測れない。そこで何が起き、誰がそこで時間を過ごし、その記憶が建物にどう残っているか — 伊藤屋という宿は、そうした重みを今も湛えている。

滞在の体験 — 十三の部屋と、貸切で使える湯

客室は本館と新館を合わせて十三室。書院造りの「一番」「二番」を核とする本館九室と、新館四室・バリアフリー仕様の客室を組み合わせ、用途と年齢に応じて選ぶ形になっている。本間の畳数は八畳から十畳が中心で、観光地の大型旅館に比べると一室あたりの面積は控えめだが、ひとつひとつの部屋に庭木と本館の屋根を望む窓があり、滞在中の視界は静かに保たれる。

湯は、敷地内の源泉から引かれている。泉質はナトリウム・カルシウム-塩化物・硫酸塩泉、温泉法上の旧泉質名で言えば「含石膏弱食塩泉」にあたる。源泉温度は六五・五度で、神経痛・筋肉痛・冷え性・疲労回復などに適応するとされる。大浴場のほか、貸切専用の露天風呂と貸切専用の半露天風呂がそれぞれ一つずつ用意されている。十三室という規模に対して貸切で使える湯が二つあることは、家族連れや高齢の同行者を伴う滞在で実質的な利点となる。


伊藤屋 — 貸切露天風呂と中庭、源泉温度六五・五度の湯
PHOTO: 伊藤屋 貸切露天 — 温泉の詳細を読む →

食事は、月替わりの会席である。湯河原から近い小田原・真鶴・伊豆の沿岸で揚がった魚介と、神奈川県西部の山あいから入る野菜・卵・肉を組み合わせた構成が中心となっている。料理は朝夕とも食事処での提供で、料理長が一品ごとに季節の素材を主役にすると公式に説明されている。十三室規模の宿で料理長が献立に関与し続けることは、家族経営の老舗旅館に共通する強みのひとつといえる。

集約レビューが映すこの宿の本質

公開レビューデータを集計すると、伊藤屋に対する宿泊者の評価は、いくつかの軸に明確に集まる。第一に、建物そのものへの満足度である。登録有形文化財に泊まれること、書院造りの客室の佇まい、廊下や階段に残る大正・昭和の意匠への言及が、安定して高い割合を占める。第二に、湯と貸切風呂の柔軟さで、十三室規模に対して貸切が二つ用意されている運用への評価が一貫している。第三に、料理の月替わり構成と、料理長が直接関与している小規模旅館ならではの献立の細やかさが挙げられる。

一方、評価が割れる軸も存在する。客室の畳数は八〜十畳が中心で、現代の大型旅館に慣れた利用者には「やや小ぶり」と感じられる場合がある。本館は文化財建造物のため、エレベーターがなく、段差や階段が残る箇所がある。バリアフリーを最優先する旅程には新館か該当タイプを指名する必要があり、その点は公開レビューでも繰り返し言及されている。文化財に泊まる体験を求めるか、現代的な客室の快適性を求めるかで、評価の方向が分かれる構造は、老舗旅館に共通する宿命でもある。

立地と周辺 — 万葉公園と藤木川沿いの散策

伊藤屋は湯河原温泉の中心部、藤木川左岸に位置する。徒歩数分の万葉公園は、湯河原温泉が万葉集に詠まれたことに由来する公園で、藤木川沿いの遊歩道、跡地に整備された日帰り温泉施設「湯河原惣湯 Books and Retreat(惣湯テラス・玄関テラス)」などが揃う(かつての足湯『独歩の湯』はこの施設へと刷新された)。国木田独歩・夏目漱石ら明治の文人たちが湯河原を訪れた記録は、この公園と周辺の文学碑に細かく刻まれており、文学散歩の起点としても機能する。

アクセスは、東海道線・湯河原駅からバスで「落合橋」下車徒歩約一分、車で約七分。東京駅から在来線で約一時間五〇分、新幹線利用なら熱海乗り換えで約一時間二〇分。日帰り圏でありながら、宿に着いた瞬間から旅程の時間軸が緩やかに変わる距離感は、湯河原という土地が江戸期以来保ってきた性格そのものといえる。


伊藤屋 — 湯河原温泉中心部、藤木川左岸の佇まい
PHOTO: 伊藤屋 周辺 — アクセス情報を見る →

こんな旅人に

  • 向く:
    登録有形文化財の建築に泊まる旅を求める人、島崎藤村と明治文学に関心がある四〇代以降、夫婦・友人連れで静かに二泊三日を過ごしたい旅程、貸切風呂で同行者と湯を共にしたい家族、湯河原・万葉公園を起点に文学散歩を組みたい人
  • 向かない:
    広いスイートや現代的なリゾート感を求める旅程(本館は数寄屋造りで畳数は八〜十畳が中心)、本館でのバリアフリーを最優先する旅(階段・段差が残る箇所あり、該当時は新館またはバリアフリー仕様和室の指名が必要)、夜の喧騒を楽しむ若年層の旅程、洋食中心の食事を望む人

具体情報

  • 所在地: 神奈川県足柄下郡湯河原町宮上四八八
  • 最寄り駅: JR湯河原駅からバス約九分(「公園入口」下車、停留所目の前)、タクシー約五分
  • 客室数: 十三室(本館・新館合計、六タイプ)
  • 客室サイズ: 本間八〜十畳が中心、次の間付き・和洋室は拡張あり
  • 創業: 一八八八年(明治二十一年)
  • 登録有形文化財: 本館三棟のうち二棟、門柱、石垣
  • 泉質: ナトリウム・カルシウム-塩化物・硫酸塩泉(含石膏弱食塩泉)、源泉温度六五・五度
  • 浴場: 大浴場、貸切専用露天風呂一、貸切専用半露天風呂一
  • 食事: 朝夕とも食事処、月替わり会席
  • 文人ゆかり: 島崎藤村『夜明け前』原案、二・二六事件時の牧野伸顕滞在地

Media Picks Score

95 / 100 — 内訳は、登録有形文化財の建築価値と一三七年の継承、藤木川左岸という湯河原温泉中心部の立地、貸切で使える二つの湯と源泉温度六五・五度の泉質、月替わり会席の運営、島崎藤村と二・二六事件という文化史上の固有性 — の五点で構成される。公開レビューデータを集計した結果に、編集部による文化史・建築史の評価を重ねた値である。

よくある質問

Q. 登録有形文化財の客室には誰でも泊まれますか?

A. 書院造りの「一番」「二番」を含む本館の客室は、宿泊の用に供されており、予約時に部屋タイプを指定することで泊まることができる。ただし本館は階段・段差が残るため、バリアフリーを優先する場合は新館または該当仕様の客室を選ぶ必要がある。

Q. ベストシーズンはいつですか?

A. 湯河原温泉は通年営業だが、二月のみかんと梅、四月の万葉公園の新緑、十一月から十二月の紅葉の時期に評価が集まりやすい。梅雨明けから盛夏にかけては藤木川の水音と緑が深く、文学散歩を兼ねる旅程には文月から葉月の前半が向く。

Q. 子連れでも泊まれますか?

A. 客室十三室の小規模旅館で、貸切露天と貸切半露天が用意されているため、家族での湯の利用は他客と切り離せる。一方、本館は文化財建造物のため段差が多く、未就学児を伴う場合は新館側の和洋室・次の間付き和室を選ぶ運用が安全である。具体的な可否は予約時に直接確認するのが確実といえる。

Q. 食事だけで人を選びますか?

A. 朝夕とも食事処での月替わり会席で、相模湾の魚介と神奈川県西部の野菜を組み合わせた構成が中心である。十三室規模の旅館で料理長の関与が献立に届く構造は、家族経営の老舗ならではの強みといえる。洋食中心や量を重視する食を望む旅程には、別の宿が合う場合もある。

Q. 文学散歩を組むには?

A. 万葉公園内の「独歩の湯」、湯河原惣湯テラス、万葉集の歌碑、国木田独歩の文学碑、湯河原温泉湯元通りなどを徒歩で結ぶことができる。伊藤屋から万葉公園入口まで徒歩数分、湯河原惣湯まで徒歩約十分。一泊二日でも文学碑を主軸にした散歩は十分に成立する。

本記事の参考情報

湯河原温泉観光協会 — 湯河原温泉の歴史・施設情報
文化遺産オンライン: 伊藤屋旅館本館 — 登録有形文化財の指定情報
Wikipedia: 湯河原温泉 — 万葉集収録・歴史的背景

編集部から

湯河原温泉は、関東の名湯として熱海と並べて語られることが多いが、宿の規模感と街の縮尺は、いまも江戸・明治の旅籠町に近い。伊藤屋という宿が、明治二十一年から一三七年を継いだ事実は、湯河原という土地の保ち方と切り離せない。書院造りの客室で、藤木川の水音を背に一夜を過ごすことは、観光ではなく — 文学と建築と湯場の歴史を、ひとつの宿の中で同時に追体験する行為に近い。次は、同じ湯河原で別の時代を担った宿か、あるいは伊豆・熱海の文人宿の系譜を辿る記事を書きたいと考えている。

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