重陽の頃、甲府盆地が葡萄の収穫を迎える季節に合う宿として、石和・勝沼・塩山から食通宿を五軒選びました。この土地の温泉は、そもそも葡萄畑から湧きました。昭和三十六年、石和の葡萄畑に突如として湯が噴き出し、川に流れ出た湯が「青空温泉」として広まって石和温泉が生まれています。葡萄と湯が同じ土から出た土地であること。それが、甲州の宿の膳にワインが自然に置かれている理由です。新酒の仕込みが始まる九月から十月、盆地の食卓がもっとも豊かになる時季に合わせて、公開レビューデータを集計し、料理を主目的にできる宿を選びました。
| # | 宿 | エリア | Score | 客室 | 目安価格 | 1行特徴 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 笛吹川温泉 別邸 坐忘 | 甲州市塩山 | 93 | 18 | ¥84–¥121k | 三千坪の庭に露天付き離れ。一汁三菜から始まる懐石と甲州ワイン |
| 2 | 石和名湯館 糸柳 | 笛吹市石和町 | 91 | 42 | ¥65–¥86k | 明治十二年に料理屋として創業。勝沼の醸造元とのワインペアリング |
| 3 | 銘石の宿 かげつ | 笛吹市石和町 | 88 | 36 | ¥62–¥92k | 四・五等級のみを甲州牛と呼ぶ。その基準を守る会席 |
| 4 | 嵯峨塩鉱泉 嵯峨塩館 | 甲州市塩山牛奥 | 87 | 11 | ¥48–¥53k | 標高千三百mの一軒宿。自家菜園と渓谷の川魚を郷土料理に |
| 5 | 甲州市勝沼 ぶどうの丘 | 甲州市勝沼町 | 86 | 21 | — | 審査会を通った甲州のワインだけが並ぶ地下カーヴを持つ丘の宿 |
※ 目安価格は公開販売価格の集計に基づく参考値で、実際の予約料金とは異なります。一泊二名利用時の一室あたり料金(税込)です。ぶどうの丘は集計に足る標本が得られなかったため、価格を伏せています。
1. 笛吹川温泉 別邸 坐忘 — 甲州市塩山
三千坪の庭に、露天風呂付きの離れ。茶事の心から立ち上がる懐石に甲州ワインを合わせる、編集部が真っ先に推したい一軒。
Media Picks Score: 93 / 100 18室、露天風呂付き離れを備える温泉旅館。
目安価格 ¥84,000–¥121,000 / 泊 (2名1室・通常期)

なぜ選ばれるか
笛吹川のほとりに、三千坪の敷地が広がります。その庭を抱えて建つのが坐忘です。理由は三つ挙げられます。第一に、料理長・保坂実が掲げるのが茶事の心、すなわち和敬静寂であること。一汁三菜から始まる懐石は、品数を誇るのではなく、順序と間合いで土地の実りを見せます。第二に、主人自らが水屋に入るという構えが、規模を広げない選択と結びついていること。第三に、甲州ワインを和の膳に合わせる試みを、装飾ではなく主題として置いていることです。宿は自らを「和のマリアージュ」と呼びます。
集約レビューの傾向
公開レビューデータを集計すると、料理と、その供し方への言及が突出して多く、当該エリアの宿の中でも際立ちます。とりわけ、料理人の技量そのものに触れる声と、会席の構成を評価する声が二本の柱をなしている点が特徴です。庭と離れの静けさ、湯の質への評価も安定して高く、評価の分布に大きな谷が見当たりません。一方で、価格帯は盆地の宿としては高い部類に入り、そこを納得の対象と捉えるか否かで受け取り方が分かれる傾向が読み取れます。記念の日を主目的とする滞在に、評価が集まっています。
向く人 / 向かない人
-
向く:
記念日や節目の夫婦旅、懐石とワインの取り合わせを旅の主目的に据える人、庭を眺めて動かない時間を求める人 -
向かない:
一泊あたりの予算を抑えたい旅程、幼い子を連れた家族(静けさを主題とする構えのため)、観光を詰め込んで宿に戻る時間が短い旅
具体情報
- 所在: 山梨県甲州市塩山三日市場2512
- アクセス: 新宿から特急かいじで約1時間30分/JR塩山駅から送迎あり(要予約)
- 客室: 18室。露天風呂付きの離れを含む
- 敷地: 三千坪の日本庭園
- 食事: 一汁三菜から始まる懐石(料理長 保坂実)。甲州ワインを合わせる
- 湯: 天然温泉。露天風呂・大浴場
2. 石和名湯館 糸柳 — 笛吹市石和町
明治十二年、料理屋として生まれた宿。石和温泉が湧くより八十年以上前から、この地で膳を出し続けてきた一軒。
Media Picks Score: 91 / 100 42室、石和温泉の老舗旅館。
目安価格 ¥65,000–¥86,000 / 泊 (2名1室・通常期)

なぜ選ばれるか
食通宿という主題に、これほど素直に応える来歴もそうありません。糸柳は明治十二年、甲州街道沿いに料理屋と宿屋を兼ねた旅籠「槌屋」として創業しました。つまり、温泉宿が料理を始めたのではなく、料理屋が温泉を得たのです。石和に鉄道が通ると駅に近い現在地へ移り、庭にあった糸柳の木から屋号を改めます。地元客が「糸にいこう」と呼んだ、その音がそのまま宿号になりました。そして昭和三十六年、葡萄畑から湯が湧いて石和温泉が誕生する。料理が先にあり、湯が後から来た宿だと言えます。
集約レビューの傾向
公開レビューデータを集計すると、料理人の技量に触れる言及が当該エリアで上位に入り、朝食への評価が独立した話題として立ち上がる点が目を引きます。夕食の会席だけでなく、朝の膳を目的として再訪を語る傾向が読み取れるのは、料理屋を出自とする宿の面目でしょう。湯については、嵐の湯と呼ばれる薬石の湯や貸切風呂への評価が安定しています。駅から徒歩三分という立地の利便が高く評価される一方、温泉街の中心にあるため、山あいの静寂を求める向きとは前提が異なります。
向く人 / 向かない人
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向く:
車を使わず電車で向かう旅、朝食を旅の楽しみに数える人、甲州ワインと和食の取り合わせを試したい人、老舗の連続性に惹かれる人 -
向かない:
一日数組の規模を求める人(四十二室の中規模旅館)、温泉街を離れた山の静けさを主目的とする旅
具体情報
- 所在: 山梨県笛吹市石和町駅前13-8
- 最寄り駅: JR石和温泉駅から徒歩3分
- 創業: 明治12年(1879年)、料理屋「槌屋」として
- 客室: 42室。露天風呂付客室、和モダン、特別フロアなど
- 食事: 和食会席。丸藤葡萄酒工業(ルバイヤートワイン)とのワインペアリングを実施
- 湯: 嵐の湯、大貸切風呂、大浴場
3. 銘石の宿 かげつ — 笛吹市石和町
四等級と五等級だけが甲州牛を名乗れる。その基準を、宿がそのまま会席の基準として引き受けた一軒。
Media Picks Score: 88 / 100 36室、露天風呂付き客室を含む温泉旅館。
目安価格 ¥62,000–¥92,000 / 泊 (2名1室・通常期)

なぜ選ばれるか
甲州牛という呼称には、明確な条件があります。甲州牛出荷組合員が育てた黒毛和種の肥育牛のうち、肉質ランクが四等級と五等級に格付けされたものだけが、その名を与えられる。かげつは、この基準を宿の献立の側から引き受けています。会席の主役として甲州牛を据え、旬菜鍋には春の山菜、夏野菜、秋のきのこ、冬の根菜を合わせる。牛を通年の看板にしながら、季節の側で組み替える構えです。宿号の由来である銘石の庭と錦鯉の池も、この宿が持ち場を決めて動かない性格をよく表しています。
集約レビューの傾向
公開レビューデータを集計すると、夕食の肉料理に評価が集中し、庭と館内の設えへの言及がそれに続きます。露天風呂付き客室を選んだ層と、そうでない層とで滞在の印象に差が出る傾向が読み取れる点は、客室の構成が四つの棟に分かれていることと対応しているのでしょう。規模は三十六室で、静寂そのものを最優先する宿ではありません。宴席や地元の会食も受ける構えであり、そのぶん館内には賑わいの時間帯が生まれます。そこを土地の宿らしさと捉えるかどうかで、評価は分かれます。
向く人 / 向かない人
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向く:
甲州牛を旅の主目的に据える人、庭を眺める時間を好む人、露天風呂付き客室で完結させたい夫婦旅 -
向かない:
肉より魚や野菜を主に望む人、館内が終始静かであることを条件とする旅、少数客室の宿だけを選びたい人
具体情報
- 所在: 山梨県笛吹市石和町川中島385
- アクセス: 新宿から特急で約1時間30分/JR石和温泉駅から送迎あり
- 創業: 昭和39年(1964年)。石和温泉の湧出(昭和36年)の三年後
- 客室: 36室。中の殿・東殿は露天風呂付き、ほかに西殿・南殿
- チェックイン: 15:00〜 / アウト 〜10:00
- 食事: 甲州牛(四・五等級のみ)の会席、季節の料理、朝食
4. 嵯峨塩鉱泉 嵯峨塩館 — 甲州市塩山牛奥
標高千三百メートル、大菩薩嶺の東麓に一軒だけ。明治三十五年から続く湯治場が、自家菜園と渓谷の実りを膳に置く。
Media Picks Score: 87 / 100 11室、嵯峨塩渓谷の一軒宿。
目安価格 ¥48,000–¥53,000 / 泊 (2名1室・通常期)

なぜ選ばれるか
盆地の葡萄畑から山道を登り詰めた先、大菩薩嶺の東麓に、この宿は一軒だけで建っています。明治三十五年に湯治場として創業し、百年以上を数えます。膳に載るのは、自家菜園の無農薬野菜と、渓谷の川魚です。岩魚の昆布締め、山女の木の芽焼き、山菜の揚物、手打ちのうどん。そして甲州の土地らしく、ワイントンの角煮やワインビーフの味噌漬けが並びます。ぶどうの搾り粕を糧に育った家畜が、山の一軒宿の膳にまで届いている。盆地の葡萄が、標高千三百メートルまで上がってきたかたちだと言えます。
集約レビューの傾向
公開レビューデータを集計すると、料理の品数と手作りの質感、そして湯の肌ざわりに評価が集まります。高アルカリの鉱泉は絹のようだと形容される性質のもので、湯そのものを目的に通う層が一定数いることが読み取れます。一方、評価が分かれるのは到達の難しさです。公共交通で気軽に立ち寄れる立地ではなく、冬季は休館します。宿泊者の関心が、湯と食と静けさに絞り込まれているぶん、館内の設備の新しさや利便性を主眼とする層とは、前提そのものが噛み合わない傾向が見て取れます。
向く人 / 向かない人
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向く:
車で山へ入る旅、湯治の系譜を持つ湯に惹かれる人、山菜と川魚を主役と考える人、秋の紅葉期に渓谷を歩きたい人 -
向かない:
電車と徒歩で完結させたい旅程、一月・二月の滞在を考えている人(休館)、館内設備の新しさを重視する人
具体情報
- 所在: 山梨県甲州市塩山牛奥5532。大菩薩嶺東麓、標高約1,300mの嵯峨塩渓谷
- 創業: 明治35年(1902年)、湯治場として
- 客室: 11室
- 湯: 高アルカリ pH10.2 の鉱泉。露天風呂・内風呂・貸切風呂
- 食事: 自家菜園の無農薬野菜と川魚による郷土料理。夕食18:00〜
- チェックイン: 15:00〜 / アウト 〜10:00
- 休業: 火・水・木曜日。1月・2月は休館
5. 甲州市勝沼 ぶどうの丘 — 甲州市勝沼町
審査会を通った甲州のワインだけが、地下のカーヴに並ぶ。葡萄畑の丘の上に、その蔵を抱えて泊まれる宿。
Media Picks Score: 86 / 100 21室、甲州市営の丘上の宿泊施設。

なぜ選ばれるか
勝沼の葡萄畑を見下ろす丘に建ち、地下にワインカーヴを抱えています。並ぶのは、甲州市の審査会に合格したワインだけ。審査会は六月と十二月の年二回で、通らなかった銘柄はここに置かれません。約百八十種類が試飲でき、その品揃えは審査会の直前になると欠品で細ります。産地が自らの酒を選別し、その結果を一箇所に集めて客に開いている。宿としての設えは簡素ですが、この土地でワインを主目的に一夜を過ごすなら、これ以上に理に適った場所は多くありません。全客室の風呂が源泉100%で、併設の「天空の湯」も使えます。
集約レビューの傾向
公開レビューデータを集計すると、評価の重心はワインカーヴと展望に置かれ、宿泊そのものへの言及はそれに次ぎます。旅館の設えや接遇の細やかさを基準に据える層からは、評点が伸びにくい傾向が読み取れます。これは公共施設として運営されている性格と対応しているのでしょう。逆に、丘の上から盆地を見渡す立地と、湯の質、そして何より地下カーヴという他にない仕掛けを目的に据えた層からは、安定した評価が寄せられています。何を主目的に置くかで、満足度がはっきり分かれる宿だと言えます。
向く人 / 向かない人
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向く:
甲州ワインの飲み比べを旅の中心に据える人、葡萄畑の眺めを求める人、予算を抑えて勝沼に泊まりたい旅 -
向かない:
旅館らしい接遇や設えを求める人、料理長の会席を主目的とする人、当日予約や web 予約で完結させたい人(電話予約のみ)
具体情報
- 所在: 山梨県甲州市勝沼町菱山5093
- アクセス: 中央自動車道 勝沼ICから約10分/JR勝沼ぶどう郷駅から徒歩約20分
- 客室: 21室(洋室13、和室10畳4・12畳3、特別室18畳1)。全室の風呂が源泉100%
- ワインカーヴ: 甲州市の審査会に合格した約180種類。試飲 1,520円、9:00〜17:30(最終受付17:00)
- 審査会: 年2回、6月および12月に実施
- チェックイン: 15:00〜20:00。予約は電話のみ(受付8:00〜21:00)
- 湯: 併設「天空の湯」は宿泊者は無料
よくある質問
Q. ベストシーズンはいつですか?
A. 葡萄の収穫と新酒の仕込みが重なる九月から十月が、この盆地の食卓のもっとも豊かな時季です。勝沼の葡萄棚が実りを迎え、宿の膳にも秋の山の幸が並び始めます。紅葉を合わせるなら、嵯峨塩渓谷など標高の高い一帯は十月下旬から十一月上旬が目安です。盆地は夏の暑さが厳しく、冬は冷え込みます。嵯峨塩館のように一月・二月を休館とする宿もあるため、冬の旅程では事前の確認が要ります。
Q. 予約のタイミングは?
A. 収穫期の週末と紅葉期は、盆地の宿全体が早くから埋まります。九月から十一月の土曜を狙うなら、二か月前を目安に動くのが無難です。客室数の少ない宿ほど選択肢が早く消えます。坐忘は十八室、嵯峨塩館は十一室しかありません。なお、ぶどうの丘は電話のみの受付で、web 予約はできません。平日は週末より落ち着き、目安価格も下がる傾向にあります。
Q. ワインペアリングはどの宿で頼めますか?
A. 本稿の五軒はいずれも甲州ワインを膳に合わせますが、性格が異なります。坐忘は懐石とワインの取り合わせを主題に掲げ、自ら「和のマリアージュ」と呼びます。糸柳は勝沼の丸藤葡萄酒工業(ルバイヤートワイン)と組んだワインペアリングを実施しています。飲み比べの幅を最優先するなら、約百八十種類を試飲できる地下カーヴを持つぶどうの丘が向きます。内容と提供期間は変わりうるため、予約時の確認が確実です。
Q. 子連れでも泊まれますか?
A. 泊まること自体はできますが、本稿の五軒は静けさと料理を主題に据えた宿が中心で、幼い子を連れた旅に最適化されてはいません。坐忘や嵯峨塩館は客室数が少なく、館内の静けさが滞在の質を支えています。かげつは三十六室と規模があり、家族での利用にも幅があります。添い寝の可否、子ども向けの食事の対応は宿ごとに異なるため、予約時に直接確かめるのが確実です。
Q. アクセスは?
A. 新宿から特急で石和温泉駅まで約一時間半、塩山駅まではさらに数分です。糸柳は石和温泉駅から徒歩三分で、電車の旅で完結します。坐忘とかげつは駅からの送迎があります(坐忘は要予約)。勝沼のぶどうの丘は勝沼ぶどう郷駅から徒歩約二十分、勝沼ICから約十分。嵯峨塩館は山間の一軒宿で、車が前提です。石和から勝沼までは車で二十分ほど、盆地の中を移動する距離は総じて短くて済みます。
本記事の参考情報
・甲州市観光協会 — 勝沼・塩山エリアの観光情報
・石和温泉観光協会 — 石和温泉郷の案内
・Wikipedia: 嵯峨塩鉱泉 — 嵯峨塩渓谷と一軒宿の沿革
・Wikipedia: 石和温泉 — 昭和36年の湧出と温泉地の成り立ち
編集部から
五軒を並べて見えてくるのは、甲州の宿にとってワインが後から足された流行ではない、ということです。葡萄畑から湯が湧いて温泉地が生まれ、料理屋が旅館になり、隣町の醸造元が明治から蔵を守ってきた。膳の上でワインと和食が出会うのは、同じ土から出たもの同士が、同じ盆地の中で顔を合わせているだけの話です。標高千三百メートルの一軒宿にワインビーフが届いている事実が、その射程をよく示しています。重陽を過ぎ、葡萄が摘まれ、新酒の澱が沈む頃。盆地の食卓がもっとも饒舌になるその季節に、どの高さから盆地を眺めるかを選ぶ。それがこの土地の宿選びなのだと思います。丘の上か、川のほとりか、それとも山の上か。あなたなら、どこに膳を置きますか。