盛夏の夕餉、卓上に置かれた硝子の鉢に、氷がひと塊、立っている。料理長は、なぜそれを立てるのか。涼を音と温度で示してきた懐石の作法を、五軒の旅館の夏の献立から静かに辿る。

※ 目安価格は公開販売価格の集計に基づく参考値で、実際の予約料金とは異なります。1泊2名利用時の1室あたり料金(税込)です。
氷が立つ、という所作
梅雨の余韻が抜けると、旅館の板場では水場の音が変わる。鱧の骨切りに使う湿り布の替わりが早くなり、当板の下に氷の塊を寝かせる宿が出てくる。盛夏、卓に運ばれる先付や向附は、必ずどこかに「冷たいもの」を含んでいる。その冷たさを、料理長は単に温度として扱わない。鉢の縁、皿の素材、敷く氷の形を借りて、夏という季節そのものを「写す」のである。
氷盤を立てる、という所作がある。長方に削った氷を斜めに切り、卓の中央に置く。その上に鱧の落としを並べ、青楓や紫蘇穂を散らす。氷は単なる冷却装置ではない。卓上の白の塊が、室内の障子越しに差す光をわずかに屈折させ、料理よりも先に「ここから涼しい時間が始まる」と告げる。盛り付けの前段に置かれた、無音の前奏である。
硝子の鉢に出汁を冷やして張り、その底に湯葉や水雲、新蓮根を伏せる「冷やし鉢」も同じ系譜にある。湯気の立たぬ吸物、と言い換えてもよい。日本料理で吸物は本来、温かいものを指す語であるが、夏の二十数日だけは、料理長が温度を反転させる権利を持つ。冷やした出汁の鰹の香りは、温かい吸物のそれより明らかに鋭く、口に含むと顎の付け根が引き締まる。涼は、舌よりも顎で感じるものだ、とある料理長は語っていたという。
こうした作法は、観光客のための演出ではない。江戸期の料亭文化、もっと遡れば茶懐石の「夏の点前」に通じる、日本料理の根本的な季節写しである。ただ、この所作を旅館の卓で日々続けるには、料理長の腕に加え、製氷・冷蔵・配膳のすべてを宿の中で完結させる態勢が要る。仕入れた氷を彫る人、向附を塗る人、出汁を張る人——その分業を維持できる宿は、年々限られてきた。本稿で取り上げる五軒は、いずれもその態勢を残している宿である。
五軒の夏献立、料理長の手
以下に紹介する五軒の旅館は、夏の献立に氷盤・冷やし鉢・水物の作法を残している。料理長の在籍年数、自家農場や近隣漁港との関係、客室から食事処までの導線の取り方——いずれもが、涼を盛りつける手数を支えている要素である。価格帯と客室規模は宿により大きく異なるが、料理の姿勢には通底するものがある。
扉温泉 明神館(長野県松本市)
標高千メートル、信州・松本の入山辺にある一軒宿。昭和六年(1931年)創業、現在は Relais & Châteaux にも名を連ねる。39室。Media Picks Score 95 / 100。目安価格は¥143,000–¥214,000/泊(2名1室・通常期)。
明神館の盛夏の献立で、まず卓に立つのが氷盤である。料理長は信州いろり料理/懐石/オーガニックフレンチの三系統を客の選択に委ねるが、いずれの系統でも、夏は氷を「料理の一品目」として扱う。鱧の落としを敷くのではなく、敷地内の自家農場で育てた無農薬の青楓を散らし、その下に冷やした地物の鮎の有馬煮、向附には扉川の水で締めた信州サーモンを置く。氷を介して、料理が山の高度と水の温度を語る構成である。

自家農場の存在は大きい。野菜は前夜と当日の二度に分けて切り、夕餉の冷やし鉢には朝採りの胡瓜の馬鈴薯のスープ仕立てが供される日もある。出汁は鰹節と昆布、そして地物の信州黄金鮒節を併せたものを冷蔵庫で半日寝かせ、客の卓に出す直前に張る。湯気の代わりに、白い磁器の鉢の縁が結露する。客が箸を取るより先に、温度差が場を整える。
別邸 音信(山口県長門市)
長門湯本という、六百年の歴史を持つ湯治場の奥。18室すべてに露天風呂を備えた料理旅館で、平成十八年(2006年)に開業した比較的新しい宿である。Media Picks Score 93 / 100。目安価格¥97,000–¥130,000/泊。

音信の夏で印象に残るのは、向附の出し方である。瀬戸内の小魚を、淡い醤油と山口の地酒で軽く締め、青楓を一枚だけ添えて、硝子の小鉢に伏せる。氷盤は使わず、鉢の底に削った氷を薄く敷き、その上に鉢を重ねる二段構成。客が鉢を持ち上げると、下の氷が音を立てる。視覚ではなく聴覚で涼を伝える、湯治場の宿らしい慎ましい設えである。冷やし鉢には、ふぐの白子を冷たい吉野葛で覆ったものが出る夜もある。
妙見石原荘(鹿児島県霧島市)
天降川の渓谷沿い、自家源泉七本を持つ霧島の名旅館。昭和四十一年(1966年)創業、18室。Media Picks Score 92 / 100。目安価格¥133,000–¥153,000/泊。

盛夏、渓谷から河鹿の声が聞こえる夕餉に、料理長は鮎を主役に据える。塩焼きではなく、冷やし鉢に鮎を寝かせ、出汁は宮崎・延岡の鰹節と霧島の山椒の若葉で香らせる。九州の旅館の夏献立としては珍しく、汗の出ない構成。湯治場の宿に通う食通が、この一鉢のために夏に予約を入れる、という宿である。
笛吹川温泉 別邸 坐忘(山梨県甲州市)
三千坪の敷地に露天付き離れを並べる甲州・塩山の温泉旅館。平成七年(1995年)開業、22室。Media Picks Score 90 / 100。目安価格¥82,000–¥121,000/泊。

坐忘の特色は、甲州ワインを冷酒のように懐石に合わせる組み立てにある。夏は青楓を散らした向附に、笛吹川の鮎の塩焼きを冷やしてから細かく解いたものを置く。氷盤は使わず、青磁の皿の下に氷水を回す。皿の表面が結露し、ワインの白の冷えと響き合う。和の作法とワインの距離を、温度で詰める試みである。
海のしょうげつ(愛知県知多郡南知多町)
伊勢湾を一望する高台に、10室だけの邸宅型旅館。平成十九年(2007年)開業、全室に露天風呂が備わる。Media Picks Score 89 / 100。目安価格¥123,000–¥141,000/泊。

夏の卓には、彫った氷盤の上に伊勢湾の白身魚と、知多の岩牡蠣が並ぶ。氷の透明度を保つため、宿では夕方に氷を彫り直す。十室の宿だからこそできる作法であり、海鮮を扱いながら汁気と匂いを徹底して制御する、料理長の意志が伝わる構成である。海辺の旅館が氷盤を立てるのは、決して当たり前の所作ではない。
季節を写す、という技法の継承
本稿で取り上げた五軒は、所在地も創業年も価格帯も異なる。共通しているのは、夏の二十数日のためだけに、料理長が温度と形を組み替えていることである。冷蔵庫に頼って単に冷たい料理を出すのは易しい。氷を立て、出汁を寝かせ、向附を伏せる作法は、人手の余裕がなければ続かない。地方の旅館で板場の人員が縮小し続ける現在、こうした手数を残している宿の存在は、それ自体が貴重な記録に近い。
夏の旅館の卓は、季節を「写す」ための舞台である。料理長が氷を立てる所作には、客の汗を引かせるだけでなく、その夜の卓を一枚の絵として残そうとする静かな意志が含まれている。涼は、温度ではなく作法によって伝わる——本稿で訪ねた五軒の卓は、いずれもそう語っていた。
よくある質問
Q. 夏の懐石で氷盤や冷やし鉢が出される時期はいつ頃ですか。
A. 多くの旅館で六月下旬から九月上旬の献立に組み込まれます。料理長によっては梅雨入りの直前から準備を始め、立秋を境に少しずつ温度を戻していく宿もあります。本稿で挙げた五軒は、いずれも七月から八月の盛夏に最も手数の多い夏献立を組みます。
Q. 鱧の落としや冷やし鉢を確実に味わうには予約時に何を伝えるべきですか。
A. 「夏の献立を中心に組んでください」と伝えるのが最も確実です。多くの旅館で標準の宿泊プランに夏献立は含まれますが、料理長おまかせのコースを選ぶと、季節の食材により振り切った構成が出てきます。アレルギー・苦手食材は予約段階で必ず申し添えます。
Q. 旅館の懐石と料亭の懐石は、夏の作法でどう違いますか。
A. 料亭の懐石は一献立を完結させることに集中しますが、旅館の懐石は宿泊の前後(部屋・湯・朝食)と連続して読まれる構成になります。氷盤や冷やし鉢が夕餉に置かれる前後で、湯の温度設定や朝食の冷たい一品まで、涼の伝え方が連続する宿が良い宿と言えます。
Q. 子連れでも夏の懐石を楽しめますか。
A. 宿により対応が分かれます。本稿で取り上げた宿のうち、明神館は子供向けのコースを別立てで用意します。坐忘・音信は離れの宿で子連れの受け入れに静かな配慮があります。事前に客室タイプと食事会場(個室か食事処か)を確認することが重要です。
Q. 夏でも温泉に入るのは適切ですか。
A. 多くの料理長が、温泉に入ったあとに冷たい献立を出す順序を意識して組み立てています。湯で身体を温めたあとの冷やし鉢は、内側と外側の温度差を感じやすく、夏の懐石の構成と最も相性が良い体験です。長湯は避け、湯上がりに白湯を一杯置く宿の作法に倣うのが穏当です。
本記事の参考情報
・Relais & Châteaux 公式 — 国際的な料理旅館の加盟基準と料理長の選定基準
・Wikipedia: 懐石料理 — 茶懐石・会席との関係、季節の点前の歴史
・長門湯本温泉 公式観光サイト — 六百年の湯治場の歴史と料理旅館の系譜
編集部から
夏の旅館は、冬の旅館とは別の物差しで読まれるべき宿である。雪の量や囲炉裏の灯ではなく、氷の透明度と出汁の温度で、料理長の技量が露わになる。本稿で取り上げた五軒は、いずれも夏の二十数日のための準備を、年間を通して怠らない宿である。次の夏、献立の中に立つ一塊の氷を見たら、それが料理長の何度目の夏かを、卓越しに想像してほしい。