盛夏の湯場に立つと、湯はその素性をいっそう正直に語る。汗ばんだ肌に、強酸性の湯は針のような刺激で応え、とろりとしたアルカリ単純泉は絹のような被膜で包み返す。同じ「温泉」と呼ばれながら、その手触りがこれほど隔たるのはなぜか。手がかりは、湯がひそかに帯びている一つの数字――pH(ペーハー)にある。本稿は、玉川の強酸から嬉野の強アルカリまで、湯を数字で読む作法を、湯場の記憶とともに辿る随筆である。
※ 目安価格は公開販売価格の集計に基づく参考値で、実際の予約料金とは異なります。1泊2名利用時の1室あたり料金(税込)です。
pH という、湯を測る一本の物差し
pH とは、水溶液に含まれる水素イオンの濃度を 0 から 14 までの数で表したものである。7 を中性とし、それより小さければ酸性、大きければアルカリ性。一つ刻みで濃度はおよそ十倍ずつ変わるから、pH 2 と pH 3 のあいだには、見た目以上の隔たりが横たわる。湯にこの物差しを当てると、これまで「ぴりっとする」「肌に優しい」と言葉で曖昧に語ってきた感触が、にわかに輪郭を結ぶ。湯を数字で読むとは、手触りの記憶に座標を与える作法にほかならない。
古くから湯治の里では、湯の強さを舌や肌の感覚で測ってきた。酸の湯は口に含めば確かに酸っぱく、傷口にしみる。アルカリの湯は石鹸を使わずとも肌がぬるりと滑る。経験が積み上げた身体の知恵を、pH という一語が静かに裏打ちする。数字は経験を否定するのではなく、世代を越えて受け渡すための、共通の言葉になる。
強酸性の極 ―― 秋田・玉川
日本でもっとも酸の強い湯として知られるのが、秋田の奥、八幡平の懐に湧く玉川温泉である。一カ所の源泉から毎分九千リットルを超える湯が噴き上がり、その pH はおよそ1.2。塩酸を主成分とする、世界でも稀な強酸性泉である。湯に身を沈めれば、肌の上を無数の細かな針が走るような刺激が立ち、夏の火照った身体ほど、その鋭さを克明に覚える。古来、湯治の人々がこの里を目指したのは、強い酸がもたらす引き締めの感覚と、岩盤から立ちのぼる地の熱を頼みとしてのことだった。数字でいえば、この一・二という値こそが、玉川の湯が刻んできた肌の記憶の核にある。
湯質の極を引く一軒 ―― 新玉川温泉(秋田・仙北市)
pH 約1.2、毎分九千リットル。日本一の強酸性を、十四の浴槽で身体に通わせる湯宿。
Media Picks Score: 93 / 100 195室、山岳温泉リゾート。
目安価格 ¥34,000–¥41,000 / 泊 (2名1室・通常期)

玉川の源泉を、湯治の宿としての設えで受け止めるのがこの一軒である。源泉を引いた大浴場には源泉100%の槽から薄めた槽まで濃度の異なる浴槽が並び、強酸の刺激を身体と相談しながら加減できる。地の熱を背に受ける天然岩盤浴は、夏でも汗をじっとりと誘い、湯と熱の双方から身体に働きかける。標高の高い山あいに建つため、盛夏でも軒先の風は涼やかで、強い湯と涼風の対比そのものが、この宿の季の景色になっている。
公開レビューデータを集計したところ、湯の強さと療養の手応えへの評価が際立って高い一軒である。一方で、強酸性ゆえに肌の弱い人や長湯には向かず、湯との距離の取り方に作法を要する湯でもある。数字を一つ知っておくことが、この湯場では何よりの心得となる。
強アルカリ寄りの極 ―― 佐賀・嬉野
玉川の対岸に立つのが、九州・嬉野の湯である。ナトリウムを含む重曹泉で、pH はおよそ八前後。日本三大美肌の湯の一つに数えられ、湯に触れれば肌がぬるりと滑り、古い角質を和らげていくような被膜を残す。酸の湯が引き締めるのに対し、アルカリの湯は緩めてほぐす。盛夏に火照った肌を、この湯はゆっくりと鎮め、湯上がりの肌に薄絹を一枚まとったような心地を残してゆく。「美肌の湯」と呼ばれる湯の多くがアルカリ性に偏るのは、この角質を和らげる性質ゆえである。
美肌の湯を渓に置く一軒 ―― 嬉野温泉 大正屋 椎葉山荘(佐賀・嬉野市)
椎葉山のふもと、渓流沿いの一軒宿。とろりとした嬉野の重曹泉を、緑陰の湯殿で受ける。
Media Picks Score: 91 / 100 20室、渓流沿いの離れ感ある一軒宿。
目安価格 ¥64,000–¥72,000 / 泊 (2名1室・通常期)

嬉野の中心から少し離れた椎葉山のふもと、渓流に沿って佇む一軒宿である。湯殿は緑陰に開かれ、せせらぎを聞きながら、とろりとした重曹泉に身を沈めることができる。夕食は地の食材を主役にした会席で、佐賀の山海が膳に並ぶ。喧騒から退いた立地そのものが、湯の柔らかさと響き合い、肌をほどく時間をいっそう深くする。アルカリの湯がもたらす滑らかな感触は、湯から上がってなお肌の記憶に長く残る。
公開レビューデータを集計すると、湯の柔らかさと静けさ、料理への評価が揃って高い。家族や夫婦で訪れ、湯場から離れた渓の宿で時を過ごす旅程に向く一軒である。一方で、温泉街を歩いて巡る賑わいを求める向きには、立地の静けさがかえって物足りなく映ることもある。
両極のあいだ ―― 新潟・月岡の硫黄
酸とアルカリ、二つの極のあいだに身を置くのが、新潟・月岡の湯である。含硫黄ナトリウム塩化物泉、弱アルカリ性。源泉は国内随一とされる硫黄の含有量を誇り、湯はエメラルドグリーンに澄む。硫黄の香が立つ一方で、弱アルカリのなめらかさを併せ持つこの湯は、古くから「美人の湯」と呼ばれてきた。強酸の鋭さでも、強アルカリの緩みでもない。両者の性質を一つの湯のなかに抱え込む、いわば中庸の湯である。数字でいえば中性のすぐ上――その均衡が、月岡の湯を独特の位置に置いている。
中庸の硫黄泉を回遊する一軒 ―― 月岡温泉 白玉の湯 華鳳(新潟・新発田市)
国内随一の硫黄を含む弱アルカリの「美人の湯」を、回遊式の露天で巡る一軒。
Media Picks Score: 90 / 100 110室、田園に建つ大型湯宿。
目安価格 ¥75,000–¥99,000 / 泊 (2名1室・通常期)

田園のなか、小高い丘の上に建つ大型の湯宿である。自家源泉「白玉の湯」を引いた回遊式の露天では、大岩風呂や檜風呂、寝湯、腰掛湯がウッドデッキで結ばれ、硫黄の香るエメラルドグリーンの湯を、立ち位置を変えながら身体に通わせていく。盛夏には、夕暮れの田園を渡る風を受けながらの露天が涼を運ぶ。湯量の豊かさと、弱アルカリの柔らかな感触が、この湯を「美人の湯」たらしめている。
公開レビューデータを集計すると、湯のなめらかさと露天の構え、もてなしへの評価が高い。広い館で湯巡りそのものを楽しむ旅に向く一軒である。一方で、こぢんまりとした静けさを第一に望むなら、規模の大きさが好みを分けることもある。
数字を一つ、旅の懐に
強酸の玉川、弱アルカリの月岡、そして重曹のなめらかさを湛えた嬉野。三つの湯場を pH という一本の物差しで並べると、これまで言葉でしか語れなかった肌の記憶が、にわかに座標を結ぶ。数字は湯の情趣を痩せさせはしない。むしろ、酸の刺激にも、アルカリの被膜にも、それぞれの理由があったと知ることで、湯につかる時間はいっそう奥行きを増す。盛夏、火照った身体を湯に預けるとき、その湯がどの極に立つのかを一つ知っておく。それだけで、湯場の手触りはあらかじめ身体に像を結ぶ。次に湯へ向かうとき、効能書きの片隅に小さく記された pH の数字を、確かめてみてはどうだろう。
よくある質問
Q. pH の数字は、湯の効能とどう関係しますか?
A. pH は酸性・アルカリ性の度合いを示す数字で、効能そのものを直接表すものではありません。ただし、強酸性の湯は引き締めや殺菌的な刺激を、アルカリ性の湯は古い角質を和らげる滑らかさをもたらす傾向があり、「美肌の湯」と呼ばれる湯はアルカリ性に偏ることが多いとされます。効能は泉質や成分とあわせて総合的に読むのが穏当です。
Q. 強酸性の湯は、肌の弱い人でも入れますか?
A. 玉川のような強酸性泉は刺激が強く、肌の弱い人や傷のある場合は注意を要します。多くの湯宿では源泉を薄めた浴槽が併設されており、濃度の弱い湯から徐々に身体を慣らす作法が一般的です。長湯を避け、湯上がりに真水で流すなど、湯との距離を測りながら楽しむのが安心です。
Q. 「美肌の湯」「美人の湯」とは、どんな湯を指しますか?
A. 明確な定義はありませんが、肌の古い角質を和らげる弱アルカリ性〜アルカリ性の湯や、保湿的な感触を残す重曹泉・硫黄泉などが、慣習的にそう呼ばれてきました。嬉野の重曹泉、月岡の含硫黄泉はいずれもこの系譜に連なる湯です。
Q. 盛夏に温泉を訪ねる楽しみはどこにありますか?
A. 火照った身体には、湯の手触りの違いがいっそう際立って感じられます。山あいの湯場は夏でも軒先の風が涼やかで、強い湯と涼風、あるいは夕暮れの露天と田園の風といった対比そのものが、夏の湯旅の景色になります。
Q. 子ども連れでも、これらの湯場を楽しめますか?
A. 嬉野や月岡のような中性〜弱アルカリの湯は刺激が穏やかで、家族での滞在に向きます。一方、玉川のような強酸性泉は刺激が強いため、年少の子どもには源泉を薄めた浴槽を選ぶなどの配慮が要ります。各宿の浴槽の構成を事前に確かめておくと安心です。
本記事の参考情報
・仙北市 観光情報(玉川温泉・新玉川温泉) — 強酸性泉の背景と地理
・Wikipedia: 嬉野温泉 — 重曹泉「美肌の湯」の歴史
・月岡温泉観光協会 — 含硫黄・弱アルカリ性「美人の湯」の解説
編集部から
湯を数字で読む作法は、長年湯に親しんできた読者にこそ、新たな視点を手渡すものと考えている。酸とアルカリ、その両極のあいだに無数の湯が連なり、湯場ごとに肌の記憶を刻んできた。次に湯場を訪ねるとき、効能書きの pH の一桁が、いつもの湯をまた違って感じさせてくれるかもしれない。湯場の数字を読み解く旅は、まだ始まったばかりである。あなたの記憶に最も深く残る湯は、酸とアルカリ、どちらの極に立っていただろうか。