処暑を過ぎ、肌を弾くような熱い湯がいくぶん遠ざかる頃、三十度台のぬる湯に長く身を委ねる宿のことを思い出す。熱さで一気に温めるのではなく、時間をかけて身体の芯へ湯を届ける——増富、栃尾又、長湯。ここに挙げる三軒は、いずれも湯温の低さを欠点ではなく作法として育ててきた湯場である。本稿は、湯を主語に据え、ぬる湯がなぜ長湯の文化を生んだのかを、随筆として静かに辿る。
※ 目安価格は公開販売価格の集計に基づく参考値で、実際の予約料金とは異なります。1泊2名利用時の1室あたり料金(税込)です。
湯温が低いほど、長く入れるという理屈
ぬる湯とは、概ね三十度台の源泉に身を浸す湯のことを指す。四十度を超える湯が短い時間で身体を温め、ときに心臓へ負担をかけるのに対し、体温に近い湯は刺激が少なく、一時間でも二時間でも浸かっていられる。熱さで急がず、時間をかけて温める——この「長湯」という入り方こそ、ぬる湯が育ててきた作法である。湯に含まれるラジウムや炭酸といった成分は、肌の表面でひととき触れて流れ去るのではなく、長く浸かることで初めて身体の奥へ届くと、湯治場では昔から考えられてきた。湯が低いから入れないのではない。低いからこそ、長く委ねられるのである。
公開レビューデータを集計したところ、本稿で挙げる三軒は、いずれも泉質と湯の入り方そのものへの高い評価が確認できた。派手な眺めや豪奢な設えではなく、湯と過ごす時間の質において支持を集めている点が共通する。
増富——岩を抱く湯に、三十度台の静けさ
標高千メートルの渓沿いに湧く、世界有数のラジウム泉。三十度台のぬる湯に身を沈める一軒。
Media Picks Score: 93 / 100 34室、増富温泉(山梨県北杜市)。
目安価格 ¥32,000前後 / 泊 (2名1室・通常期)

名峰みずがき山・金峰山の南麓、標高およそ千メートル。本谷川の支流沿いに、不老閣は建つ。湧くのは天然ラジウム泉。内湯「不老の湯」「長寿の湯」は三十度から三十六度ほどと、まさに三十度台のぬる湯である。岩を抱くように設えられた湯船に身を沈めると、最初こそ肌寒くも感じるが、しばらくすると湯と身体の境がほどけてくる。この宿の湯治の作法は段階的で、まずぬるい源泉でゆっくり身体を慣らし、しかるのち四十一度ほどの上がり湯で締める。熱さを先に置かないこの順序が、ぬる湯の宿らしい。源泉は五つを数え、いずれも加水なしのかけ流し。湯が、ここでは確かに主役である。
栃尾又——四百年の湯に、桐の階段を下りて
三十五度のぬる湯に一、二時間。八世紀に開湯し、二十五代続く湯治の本流。
Media Picks Score: 93 / 100 28室、栃尾又温泉(新潟県魚沼市)。

越後三山の懐、魚沼の山里に自在館はある。開湯は八世紀にさかのぼり、宿としては四百年余り、当代で二十五代を数えるという。湧くのは無色透明のラジウム泉。源泉浴槽「霊泉の湯」は三十五度ほどのぬる湯で、ここでは一時間、二時間と浸かるのが当たり前の作法とされる。長く湯に身を委ねるうち、張りつめていた身体がゆっくりとほどけていく——ぬる湯が自律神経をなだめると、古くから言い伝えられてきた所以である。桐の階段を下りた先に湯がある設えも、この宿が湯を中心に据えてきた歴史を物語る。宴も喧騒もない。湯と、静けさと、湯治の食。それだけがここにある。
長湯——その名のとおり、炭酸の湯に長く
「長く湯に浸かる」を名に負う炭酸泉の里。文人が愛した、長湯の作法を伝える一軒。
Media Picks Score: 95 / 100 15室、長湯温泉(大分県竹田市)。
目安価格 ¥42,000–¥56,000 / 泊 (2名1室・通常期)

大分・竹田の山あいに湧く長湯温泉は、その名が示すとおり「長く湯に浸かる」ことを身上としてきた湯場である。湧くのは含鉄炭酸水素塩泉——日本でも有数の炭酸泉として知られ、肌にまとわりつく細かな泡が、ぬるめに供される湯のなかで長湯を促す。大丸旅館は、この地で最も長い歴史を持つ宿のひとつ。大正から昭和の初めにかけ、与謝野晶子、野口雨情、田山花袋といった文人墨客がこの湯を訪れ、書き留めた。炭酸の湯は熱くしては泡が逃げる。ぬるめに保ち、ゆっくり浸かる——それがこの土地の湯の作法であり、宿の名「長湯」がそのまま入り方を言い当てている。三十度台のラジウム泉とは泉質こそ異なるが、「熱さでなく時間で温める」という思想において、長湯はぬる湯文化の南の極にある。
時間で温めるという、日本の湯の系譜
増富のラジウム泉、栃尾又のぬる湯、長湯の炭酸泉。泉質も土地も異なる三軒だが、根に通うものは同じである。すなわち、熱さで身体を急かすのではなく、低い湯温に長く身を委ね、時間をかけて成分を芯まで届ける——という入り方だ。これは効率とは無縁の作法であり、だからこそ湯治場は人を一泊では帰さず、幾日も滞在させ、その地の暮らしと結びついてきた。処暑の頃、熱い湯がいくぶん遠ざかる季節に、三十度台の湯へ静かに身を沈める。湯を急がぬという一事に、日本の湯場が長い時間をかけて育ててきた知恵が宿っている。
よくある質問
Q. ぬる湯はどのくらいの時間入るのが目安ですか?
A. 三十度台のぬる湯は、一般に一時間から二時間ほどかけてゆっくり浸かるのが古くからの作法とされます。熱い湯のように数分で上がるのではなく、身体が湯となじむまで待つのが要諦です。栃尾又のように長湯を前提とした湯場では、こうした入り方が宿の基本になっています。のぼせにくい反面、湯あたりすることもあるため、水分を取りながら無理のない範囲で楽しむのがよいでしょう。
Q. ぬる湯の効能はどのようなものですか?
A. 湯温が体温に近いため身体への負担が小さく、長く浸かることで含有成分が時間をかけて働くと、湯治場では伝えられてきました。増富や栃尾又のラジウム泉、長湯の炭酸泉と泉質はそれぞれ異なりますが、いずれも長湯を前提に効能を語る点で共通します。なお効能の感じ方には個人差があり、持病のある方は事前に主治医へ相談するのが安心です。
Q. 連泊の湯治はできますか?
A. 本稿の三軒はいずれも湯治の伝統を持ち、連泊での滞在に向く宿です。とりわけ自在館は静養を目的とした湯治宿で、宴会や喧騒を避け、湯と食に集中できる設えになっています。連泊プランや湯治向けの食事を用意する宿もあるため、滞在日数に応じて宿へ相談するとよいでしょう。
Q. 子連れでも利用できますか?
A. ぬる湯の宿は静養を旨とするため、館内の静けさを大切にする傾向があります。栃尾又の自在館のように喧騒を避ける方針の宿もあり、年齢制限や利用条件は宿により異なります。家族での利用を考える場合は、事前に各宿へ条件を確認するのが確実です。
Q. アクセスはどうなっていますか?
A. 不老閣は中央自動車道から増富温泉郷へ、自在館は越後三山の麓・魚沼市の山里へ、大丸旅館は大分・竹田の長湯温泉へ。いずれも山あいの湯場のため、公共交通より車での訪問が便利な立地です。詳しい所要時間は各宿の公式サイトで確認できます。
本稿の参考情報
・Wikipedia: 増富温泉 — ラジウム泉の歴史と地理の背景
・魚沼市観光協会 — 栃尾又温泉のエリア情報
・Wikipedia: 長湯温泉 — 炭酸泉と長湯文化の背景