長月の夕、離れへ向かう渡り廊下の板張りに、白熱灯の光が長く伸びる。離れの宿にとって、母屋から客室棟へ渡る屋根付きの廊下は、単なる通路ではなく、日常の時間から湯宿の時間へと客の気持ちを切り替える結界であり続けてきた。雨に濡れぬための庇、足裏に伝わる床の冷え、途中に開く中庭。二十歩ほどの距離に、宿はなぜこれほどの意匠を注いできたのか。数寄屋の作法をたどりながら、渡り廊下という「間」を読み解く。長野・別所温泉の旅館花屋、大分・由布院の別邸 風の森という、性格の異なる二軒を手がかりとする。

※ 目安価格は公開販売価格の集計に基づく参考値で、実際の予約料金とは異なります。1泊2名利用時の1室あたり料金(税込)です。

廊下は、なぜ屋根を持ったか

母屋と離れを分けて建てるという構えは、そもそも不便を選ぶ設計である。ひとつの屋根の下に客室を並べれば、配膳も清掃も湯の運びも短くて済む。それでも宿が棟を分けてきたのは、客室のあいだに庭と距離を置くことでしか得られない静けさがあったからだ。そして棟を分けた瞬間、宿は次の問いに直面する。分けた棟を、どう結ぶか。

雨と雪の多い土地で、答えは屋根付きの廊下だった。ただし庇をかけるという判断は、雨をしのぐ以上の意味を帯びる。屋根がかかれば、そこは外でも内でもない場所になる。柱の間から庭が見え、風が抜け、それでいて足元は乾いている。数寄屋の作法では、この「どちらでもない」領域こそが座敷の格を決めてきた。茶の湯の露地が客の心を整えるために設けられたように、渡り廊下は客が母屋の帳場から離れの静けさへ移るための、身支度の時間として置かれている。

屈折と中庭が、歩みを遅らせる

よく設計された渡り廊下は、まっすぐに伸びない。折れ、曲がり、途中で中庭を抱き込む。直線であれば十数歩で済む距離を、宿はわざわざ屈折させて三十歩に引き延ばす。歩くたびに視界が変わり、庭の一部が現れては隠れる。この反復が、客の歩みを自然に遅くする。急ぐ理由のない場所として設計されているからだ。

素材の選定も同じ思想でなされる。板張りの床は、足裏に季節の温度を直に伝える。長月の夕には、昼の熱がまだ残る板と、日の落ちた側の冷えとが、数歩のうちに入れ替わる。丸太の柱、鉄板葺きや杮葺きの屋根、そして白熱灯や行灯の橙色。いずれも視線を天井へ、次に庭へと導くための配慮であり、廊下そのものを見せるための装置ではない。廊下は、庭と棟を見せるための額縁として設けられている。

この考え方が建築として公に評価された例もある。修善寺の新井旅館では、明治32年に月の棟と雪の棟を結んで架けられた屋根付きの太鼓橋「渡りの橋」が、国の登録有形文化財となっている。床は小幅板を目透かしに貼り、下を流れる水が見えるように仕組まれた。渡るという行為そのものを、宿は客に意識させようとしていた。

旅館花屋 — 長野・別所温泉

6,500坪の敷地に散る木造の棟を渡り廊下で結び、その廊下ごと登録有形文化財に選定された、大正6年創業の一軒。

Media Picks Score: 93 / 100  32室、温泉旅館。

目安価格 ¥62,000–¥110,000 / 泊 (2名1室・通常期)


旅館花屋 — 長野・別所温泉 · 栂材の丸太柱と切妻屋根で組まれた渡り廊下、庭の紅葉を望む
PHOTO: 旅館花屋 — 公式サイトを見る →

大正6年、村民の出資によって設立された会社が観光客のための宿を建てた。それが花屋のはじまりである。6,500坪の敷地に木造建築が1,500坪ぶん点在し、その棟と棟とを結ぶのが渡り廊下だ。公式の館内案内によれば、廊下には良質の栂材が使われ、屋根は切妻造の鉄板葺き、丸太の柱に丸太の桁を用いた数寄屋風の構えで、明かりは今もすべて白熱灯である。ほぼ全館が登録有形文化財に選定されており、廊下は保存されるべき建築の一部として扱われている。

この廊下は、ロビーから本館を経て大理石風呂へ至る途中で池を渡り、中庭に沿って屈折しながら伸びる。奥へ導かれるほど視界が変わる設計で、秋には庭の紅葉が板張りに映り込む。別所温泉の宮大工が手がけた仕事で、柱や欄間には千曲川や浅間山、竹などの意匠が彫り込まれている。源泉かけ流しの湯は大理石風呂・若草風呂・露天風呂の三種。離れの客室には温泉かけ流しの内湯が備わり、132平米の特別室も用意されている。

公開レビューデータを集計すると、建物そのものへの評価が突出して高い一方、木造ゆえに音が伝わりやすい点は宿自身が公式に断っている。静けさを求める客ほど、この正直さを評価する傾向が見て取れる。

具体情報

  • 最寄り駅: 上田電鉄別所線・別所温泉駅から徒歩5分(上田駅から別所線で約30分)
  • 創業: 大正6年(1917年)
  • 規模: 総部屋数32室/敷地6,500坪、木造建築1,500坪
  • チェックイン: 15:00〜(最終18:00)/アウト 〜11:00
  • 湯: 源泉かけ流し3種(大理石風呂・若草風呂・露天風呂)
  • 周辺: 北向観音まで徒歩5分、安楽寺まで徒歩13分/敷地内駐車場は無料

由布院別邸 風の森 — 大分・由布院

千二百坪に離れが点在し、木漏れ日と灯の模様が床を渡る廊下を持つ、全10室の現代の離れ宿。

Media Picks Score: 91 / 100  10室、離れ形式の温泉旅館。

目安価格 ¥79,000–¥116,000 / 泊 (2名1室・通常期)


由布院別邸 風の森 — 大分・由布院 · 離れ客室に備わる檜の内湯と石組みの露天風呂、自家源泉かけ流し
PHOTO: 由布院別邸 風の森 — 公式サイトを見る →

渡り廊下は、古い木造建築だけのものではない。由布院の山手、観光地の喧騒から離れた千二百坪の敷地に、全10室の離れが点在する。公式の館内案内はこの廊下について、晴れた日には木漏れ日が差し込み、夕方から夜になると灯の模様が床や壁に現れる、と記している。回廊には陶芸のランプが配され、棟から棟へ渡る数十歩のあいだ、光の模様が客の足元を移ろっていく。花屋の白熱灯が大正の技術の名残であるのに対し、こちらは灯そのものを意匠として選び取った現代の判断である。

湯は自家源泉のかけ流しで、由布院温泉としては珍しい炭酸水素塩泉、pH9.0。全室に露天風呂と内湯が備わり、客室は23平米のスタンダードから35平米のエグゼクティブ、83平米のスイート、104平米のロイヤルスイートまで幅がある。庭園には足湯がめぐり、岩盤浴も用意されている。食事は朝夕とも個室の食事処で供される。

公開レビューデータを集計すると、棟が独立していることによる静けさと、客室ごとの湯の自由さへの評価が安定して高い。一方で棟が散在するぶん館内の移動は生じるため、その数十歩をどう捉えるかで印象が分かれる宿でもある。

具体情報

  • 最寄り駅: JR由布院駅から徒歩約20分(無料送迎あり・完全事前予約制、15:00〜17:00の5便)
  • 車: 湯布院ICから約10分
  • 規模: 総部屋数10室/敷地千二百坪、全室離れ
  • 客室サイズ: 23〜104平米(スタンダード23/エグゼクティブ35/セミスイート40/ジュニアスイート64・74/スイート83/ロイヤルスイート104)
  • チェックイン: 15:00〜(最終18:00)/アウト 〜10:00
  • 湯: 自家源泉かけ流し・炭酸水素塩泉・pH9.0/全室に露天風呂と内湯、岩盤浴あり
  • 食事: 朝夕とも個室の食事処

廊下が終わるところから、離れの時間が始まる

渡り廊下が建築として正当に評価された例は、ほかにもある。下呂の湯之島館では、昭和6年に建てられた玄関棟と木造三階建ての宿泊棟、そして両者を結ぶ渡り廊下が、平成22年に国の登録有形文化財に登録された。宿の公式案内は、廊下の形状に沿って窓枠が斜めに取られ、窓ガラスも斜めに切られた箇所があると記す。当時の製造技術の制約から生まれた歪みが、いまは廊下の見どころとして語り継がれている。廊下は、宿の裏方ではなかった。

二軒を並べて見えてくるのは、渡り廊下が果たしてきた役割が、時代を越えて変わっていないことである。大正の木造が庇と板張りで果たしたことを、現代の宿は灯と庭の配置で果たそうとしている。素材も技術も違うが、目的は同じだ。客が母屋を出て離れに着くまでの数十歩に、余白を持たせること。その余白があるからこそ、離れの障子を閉めた瞬間に、静けさが完成する。

長月の夕は、この距離を歩くのに最も適した季節かもしれない。日が短くなり、廊下の途中で灯がともる時刻に出会いやすい。庭の色はまだ緑を残しながら、端から色づき始めている。急がずに渡る、それだけのために設けられた道である。

本稿で触れた宿

  • 旅館花屋(長野県上田市別所温泉/大正6年創業/32室)— 棟をつなぐ渡り廊下を含め、ほぼ全館が登録有形文化財に選定
  • 由布院別邸 風の森(大分県由布市湯布院町/全10室)— 千二百坪に離れが点在、自家源泉かけ流しの炭酸水素塩泉

よくある質問

Q. 渡り廊下のある宿は、雨や雪の日でも移動しやすいですか。

A. 屋根と庇がかかっているため、母屋と客室棟のあいだで濡れることはほとんどありません。ただし壁で囲われていない開放的な構えが多く、冬季は外気がそのまま入ります。旅館花屋のように木造建築を当時のまま保存している宿では、廊下の冷えも建物の一部として受け止める心づもりがあると、滞在が快適になります。

Q. 渡り廊下が美しく見えるのは、どの季節ですか。

A. 中庭や池を抱き込む構えの廊下は、秋がもっとも表情豊かです。旅館花屋では庭の紅葉が板張りに映り込み、日没後は白熱灯の橙色が加わります。由布院別邸 風の森は、晴れた日中の木漏れ日と、夜に床や壁へ落ちる灯の模様という二つの見どころを公式に挙げています。

Q. 離れの宿は、足腰に不安のある人でも泊まれますか。

A. 棟が分かれている以上、母屋の食事処や大浴場までの移動は生じます。旅館花屋は別所温泉駅から徒歩5分と近い一方、館内は大正期の木造建築で段差が残ります。由布院別邸 風の森は総部屋数10室で敷地は千二百坪、棟の位置によって歩く距離が変わります。移動距離への不安がある場合は、予約時に母屋に近い棟を相談するのが確実です。

Q. 子ども連れでも滞在できますか。

A. 二軒とも受け入れの方針は宿ごとに異なり、時期や客室タイプによっても変わります。由布院別邸 風の森は0歳から施設使用料が必要であることを公式に案内しています。旅館花屋は木造建築という構造上、音が伝わりやすいことを公式に断っており、静けさを重んじる客層が中心です。いずれも予約時の確認が前提となります。

Q. 渡り廊下そのものが文化財になることはありますか。

A. あります。下呂温泉の湯之島館では、本館・玄関とともに渡り廊下が国の登録有形文化財に登録されています。城崎温泉のゆとうや旅館の渡り廊下も、数寄屋意匠を基調とした造形が評価されて登録されました。廊下は建物と建物のあいだの余りものではなく、それ自体が保存に値する建築として扱われています。

本稿の参考情報

文化遺産オンライン: 湯之島館本館 — 登録有形文化財の登録内容
文化遺産オンライン: 新井旅館渡りの橋 — 明治32年建築、屋根付き太鼓橋の詳細
文化遺産オンライン: ゆとうや旅館渡り廊下 — 数寄屋意匠の渡り廊下、2015年登録
別所温泉観光協会 — 信州の鎌倉と呼ばれる湯里の案内
由布院温泉観光協会 — 由布院の宿と周辺の情報
Wikipedia: 別所温泉 — 温泉地の歴史と地理の背景

編集部から

離れの宿を訪ねるたびに、編集部が真っ先に見るのは客室ではなく、そこへ至る道である。露地の飛石、沓脱石、そして渡り廊下。いずれも歩みを遅らせるために置かれた仕掛けで、宿の格はそこに最もよく表れる。今回の二軒は、大正の木造と現代の設計という対照的な立場にありながら、廊下に時間を持たせるという一点で一致していた。次に渡り廊下を歩くとき、足を止めて天井の梁を見上げてみてほしい。屋根の勾配と柱の間隔に、その宿が客に何を望んできたかが書かれている。

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