盛夏の夕暮れ、膳の上に山の翳りと海の照りが同時に置かれる宿がある。山あいの宿が遠い港から運ぶ一尾、海辺の宿が背後の里から摘む一菜。料理長はなぜ、一枚の膳に土地の地形そのものを写そうとしてきたのか。本稿は、創業の古い宿や品評会に名を連ねてきた宿の作法を引きながら、山海を一卓に収める献立の由来を、素材と土地の話として辿る。
※ 目安価格は公開販売価格の集計に基づく参考値で、実際の予約料金とは異なります。1泊2名利用時の1室あたり料金(税込)です。
膳の上に、土地の地形を写すということ
一汁三菜という言葉に、私たちはつい簡素を読み取る。けれども旅館の卓に向かうと、その構えがいかに周到な約束ごとの上に成り立っているかに気づかされる。向付に始まり、煮物椀で一度膳の景色が静まり、焼き物で再び土地の質感が立ち上がる。この流れは、室町から続く本膳料理の名残りであり、もてなしの宿はその作法を、土地の素材に置き換えながら継いできた。
とりわけ日本の地形は、山と海の距離を極端に縮める。背後にすぐ嶺が迫り、その裾がそのまま入り江へ落ちる土地が、列島には数えきれない。だからこそ料理長は、山のものと海のものを一枚の膳に並べることに、ためらいを持たない。向付の白身に港の朝が宿り、煮物椀の出汁に里山の水が流れる。膳は、その宿の立つ土地の断面図なのである。本稿で辿る三軒は、いずれもその断面を異なる角度から見せてくれる。
山が海を呼ぶ — 谷川温泉 別邸 仙寿庵
谷川岳の懐に十八室。深山の宿が、上越の海の一尾を静かに膳へ招く。
Media Picks Score: 92 / 100 18室、客室露天の宿。
目安価格 ¥125,000–¥152,000 / 泊 (2名1室・通常期)

谷川岳の麓、渓流に沿って千坪の敷地が静まり返る。一九九七年に始まり、二〇一二年にはルレ・エ・シャトーへ名を連ねたこの宿は、十八室のすべてに源泉かけ流しの露天を備える。深山の宿である。だが膳に向かうと、その奥に海が現れる。春の山菜、秋の茸といった上州の山のものを土台に据えながら、料理長は上越の港から運ばれた一尾を、椀や向付の主役に据えてみせる。山が海を呼ぶ、という構図がここにある。
谷川の水で引いた出汁は澄んで、海の素材の塩気をやわらかく受け止める。山の宿が海の幸を扱うとき、しばしば素材は道中で疲れる。それを承知のうえで遠い港の一尾を選ぶのは、この土地の膳に海が欠かせないという確信があるからだろう。公開レビューデータを集計したところ、静けさと食事の構成への評価が際立って高い一軒であることが確認された。
- 向く: 夫婦・友人との静かな滞在、客室露天で湯を独り占めしたい人、献立の構えそのものを味わいたい人
- 向かない: 賑わいや館内の催しを求める旅、観光中心で宿に戻る時間が短い旅程
具体情報
- 所在: 群馬県利根郡みなかみ町谷川(谷川温泉)
- 客室: 18室・7タイプ、全室に源泉かけ流しの客室露天
- アクセス: 関越自動車道 水上ICから車で約10分
- 食事: 群馬の山と海の素材を組む会席
- 沿革: 1997年開業、2012年ルレ・エ・シャトー加盟
山と海が交わる — 城崎温泉 西村屋本館
円山川が日本海へ落ちる土地に、江戸末から続く一軒。山の幸と海の幸が、はじめから同じ卓の上で出会う。
Media Picks Score: 93 / 100 34室、名旅館・食通宿。
目安価格 ¥173,000–¥224,000 / 泊 (2名1室・通常期)

城崎の地は、円山川が日本海へ落ちる河口に開ける。背後には但馬の山が控え、目の前には港がある。山と海が物理的に交わるこの土地で、江戸末・安政の頃から続く西村屋本館は、両方の幸を一卓に重ねる作法を長く磨いてきた。但馬牛と但馬産コシヒカリ、山の山菜や茸が膳の土台をなし、冬には松葉かに、津居山かにといった日本海の王者が向付と焼き物を彩る。山のものと海のものが、ここでは互いを補い合う。
料理旅館として名を知られたこの宿の膳は、奇をてらわない。土地の素材を、土地の出汁で、過不足なく組む。それが結果として、城崎という土地の断面をそのまま卓に置くことになる。日本海が近いという地の利を、山の恵みが支える構図と言ってよい。公開レビューデータを集計したところ、料理と接遇の双方で長く高い評価を保ってきた一軒であることが確認された。城崎は外湯めぐりの町でもあり、夕餉の前後に七つの湯を巡る時間も、この宿の滞在を厚くする。
- 向く: 名旅館の格と料理を主目的にする旅、冬の松葉かにを目当てにする滞在、外湯めぐりと組み合わせたい人
- 向かない: 客室露天で完結したい旅程、価格を抑えたい旅
具体情報
- 所在: 兵庫県豊岡市城崎町(城崎温泉)
- 客室: 34室
- 食事: 但馬の山の幸(但馬牛・山菜)と日本海の幸(松葉かに・津居山かに)の会席
- 湯: 露天を備えた大浴場のほか、城崎七つの外湯めぐりが徒歩圏
- 沿革: 江戸末・安政期創業の料理旅館
海が里山を抱く — 能登九十九湾 百楽荘
九十九湾の入り江に立つ宿。海の宿でありながら、膳には奥能登の里山がそっと寄り添う。
Media Picks Score: 90 / 100 27室、海辺の食通宿。
目安価格 ¥86,000–¥174,000 / 泊 (2名1室・通常期)

能登の入り組んだ海岸線が、無数の入り江を刻んだ九十九湾。その水際に立つ百楽荘は、地下三百五十メートルから汲み上げた能登海洋深層水の洞窟風呂で知られる。文字どおり海に抱かれた宿である。けれども膳の眼目は、海の幸だけではない。宿が掲げる「能登の里山と里海が育んだ旬の幸」という言葉のとおり、九十九湾の天然魚に、能登牛や里の野菜、山菜が静かに添えられる。海が里山を抱く、という構図がここにある。
奥能登という土地は、海と里が分かちがたく結ばれている。漁村のすぐ背に田と山が迫り、暮らしも食もその両方の上に成り立ってきた。百楽荘の膳は、その暮らしの形をそのまま卓に移したものと言える。海の鮮度を主役に置きながら、里山の滋味が膳の輪郭を整える。公開レビューデータを集計したところ、洞窟風呂の趣と海の料理への評価が長く支持されてきた一軒であることが確認された。
- 向く: 海辺の景と魚を目当てにする旅、洞窟風呂という趣向を楽しみたい人、奥能登の里海里山を一度に味わいたい人
- 向かない: 公共交通のみで巡る旅程(車利用が前提になりやすい)、市街地の利便を求める滞在
具体情報
- 所在: 石川県鳳珠郡能登町越坂(九十九湾)
- 客室: 27室
- 湯: 能登海洋深層水を用いた洞窟風呂、貸切風呂
- 食事: 「能登の里山と里海が育んだ旬の幸」を組む会席
- アクセス: のと里山空港ICから車で約40分、無料駐車場あり
本稿で触れた宿
山が海を呼ぶ谷川温泉の別邸 仙寿庵、山と海が交わる城崎の西村屋本館、海が里山を抱く能登の百楽荘。三軒の膳は、それぞれの土地の地形を異なる角度から写していた。向付の一片、煮物椀の一椀に、その宿の立つ場所が透けて見える。それこそが、旅館の献立がいまも私たちの記憶に残る理由なのだろう。
よくある質問
Q. 山海を一膳に置く献立は、いつ頃の味覚が見ごろですか。
A. 盛夏は鮎や白身、夏野菜と山菜が中心になり、海と山の素材が軽やかに組まれます。冬は日本海側で松葉かにが膳の主役に立ち、山のものがそれを支えます。土地の地形が最も濃く出るのは、素材が交差する晩秋から初冬と、編集部は考えます。
Q. 山あいの宿で海の幸、海辺の宿で山の幸は本当に新鮮ですか。
A. 名の通った宿ほど、運搬と仕入れの経路を長く保ってきました。谷川温泉の別邸 仙寿庵は上越の港から、能登の百楽荘は背後の里山から素材を引きます。距離より、その経路をどれだけ手入れしてきたかが質を左右します。
Q. 子ども連れでも献立を楽しめますか。
A. 三軒とも静けさを身上とする宿のため、年齢や対応は宿ごとに異なります。子ども向けの献立や添い寝の可否は、滞在の前に各宿へ確かめておくと安心です。
Q. 客室で湯を使いたい場合、どの宿が向きますか。
A. 全室に源泉かけ流しの客室露天を備えるのは別邸 仙寿庵です。西村屋本館は大浴場と城崎の外湯めぐり、百楽荘は洞窟風呂や貸切風呂に趣があり、湯の楽しみ方がそれぞれ異なります。
Q. アクセスはどのようになりますか。
A. 別邸 仙寿庵は関越道 水上ICから車で約10分、百楽荘はのと里山空港ICから約40分です。西村屋本館は城崎温泉の温泉街に位置し、列車で城崎温泉駅まで向かう旅程が組みやすい一軒です。
本記事の参考情報
・城崎温泉観光協会 — 城崎温泉と外湯めぐりの案内
・Wikipedia: 本膳料理 — 向付・煮物椀など膳の作法の背景
編集部から
膳に山と海を一度に置くという作法は、料理人の技以上に、その宿の立つ土地の地形に支えられている。山が海を呼び、海が里山を抱く——三軒の献立を辿ると、料理が土地の断面図であるという見立てが、決して比喩にとどまらないことが分かる。次はどの土地の膳が、どんな地形を写しているのか。あなたの記憶に残る一膳は、どこの山と海を結んでいただろうか。