飛騨高山の市街地で長く灯を守ってきた宿を一軒挙げるなら、宮川の朝市から歩いて一分、相生町の旅館田邊である。1934年(昭和9年)、高山本線の全線開通を機に、製糸を生業としていた田邊家が旅館業へと踏み出した。本館の建物はそれよりさらに古く、築百年を越える飛騨建築が今も客を迎えている。白露を過ぎ、宮川の朝の空気が澄みはじめるこの季節、秋の高山祭を控えた町の中心で、九十年の代替わりを重ねてきた一軒を訪ねる。


旅館田邊 — 岐阜県高山市相生町 · 築百年を越える本館の廊下、簾越しの光と行灯
PHOTO: 旅館田邊 — 公式サイトを見る →

22室、飛騨建築の本館と新館「遊墨庵」からなる純和風旅館。

目安価格 ¥68,000–¥95,000 / 泊 (2名1室・通常期)

※ 目安価格は公開販売価格の集計に基づく参考値で、実際の予約料金とは異なります。1泊2名利用時の1室あたり料金(税込)です。

製糸の家から旅籠へ — 九十年の代替わり

この宿の始まりは、鉄道の開通と結びついている。1934年、高山本線が全線開通し、飛騨は名古屋・富山の双方から鉄路でつながった。人の流れが変わることを読んだ田邊家は、それまでの製糸業をたたみ、旅館業へと転じる。生糸を扱う商家が、旅人を迎える家へ姿を変えた——飛騨の近代がそのまま一軒の宿の履歴になっている。

転機は幾度かあった。1963年(昭和38年)、作家の司馬遼太郎がこの宿に滞在し、「この里にきてはじめて自分が日本に生まれてきたことを憶うた」の一文を書き残している。書は今もフロント脇に掲げられ、宿の来歴を静かに語る。1984年に創業五十周年、2009年に新館「遊墨庵」が開業して大浴場への飛騨高山温泉の引湯が始まり、2021年には先代女将・田邊晶子が高山市の「飛騨高山の名匠」に認定された。2023年には築百年を越えた本館の三室を改装し、翌2024年に創業九十周年を迎えている。

代を替えるたびに建て替えるのではなく、古い骨格を残したまま必要な部分だけを新しくする。九十年という時間の中で、この宿が選び続けてきたのはその方法だった。

築百年の本館と、数寄屋を写した新館


旅館田邊 — 高山市相生町 · 2023年に改装された本館の和室、雪見障子と広縁のある十畳間
PHOTO: 旅館田邊 — 客室の詳細(公式)→

本館は、上質な木材を用いた飛騨建築である。太い梁と黒光りする柱、磨かれた廊下。簾越しに落ちる光と行灯の灯りが、廊下の奥行きをいっそう深く見せる。2023年に改装された三室のうち、スイート「櫻」(51.5㎡)は数千年を経た神代欅を高山の組み木の技法で建具に仕立てた一室で、洋室と和室の二間で構成される。「橘」(50.5㎡)は十畳と六畳の二間続きに広縁を添え、橙の壁が座敷に華を与える。「桂」(40.5㎡)は雪見障子の向こうに専用の坪庭を持ち、二階にありながら庭を眺められる造りになっている。

本館にはもう一つ、土蔵の二階部分を改めた十畳の和室がある。天井が高く、見上げれば太い梁が横たわる。蔵という建物の性格上、外からの音が届きにくく、館内でも際立って静かな一室と言える。

2009年開業の新館「遊墨庵」は、階ごとに意匠を変えている。二階は木の風合いを生かした茶室様式——数寄屋風。三階は飛騨春慶塗の朱を取り入れた高山風。飛騨の木工と漆という、この土地が千年単位で育ててきた二つの技を、客室の主題に据えたことになる。新館の客室には内風呂、広縁、洗面台が備わり、一階の客室には坪庭を望む半露天の檜風呂が付く。

湯 — 市街の中心で、天然温泉に浸かるという贅沢


旅館田邊 — 高山市相生町 · 信楽焼の壺風呂と竹の湯口、大浴場の露天スペース
PHOTO: 旅館田邊 — お風呂の詳細(公式)→

湯が引かれたのは2009年、新館の開業と同時である。泉質は単純温泉(低張性弱アルカリ性低温泉)、pH8.1。無色透明で、肌に触れるとわずかにとろみを感じる、いわゆる美肌の湯の系統に属する。大浴場は二か所あり、一方は檜風呂、一方は岩風呂。いずれも内湯が天然温泉で、屋外に置かれた信楽焼の壺風呂は沸かし湯である。この点は宿自身が明記しており、規模も「それほど広いとは言い難い」と正直に記す。

それでも、古い町並みと朝市が徒歩数分という市街の中心で、天然温泉の内湯に身を沈められる宿は多くない。散策で冷えた体をそのまま湯に運べる距離の近さこそが、この宿の湯の価値である。入浴は15時から23時、朝は6時から8時30分まで(12月から3月は6時30分から)。男女の入れ替えは行っていないため、檜と岩のどちらに当たるかは客室の階によって決まる。貸切風呂は設けられていない。

食 — A5等級の飛騨牛、朴葉味噌、そしてぶり街道の魚


旅館田邊 — 高山市相生町 · 会席に供されるA5等級の飛騨牛、板場での仕込み
PHOTO: 旅館田邊 — 料理の詳細(公式)→

夕食も朝食も、原則として客室に運ばれる。人数や献立によっては個室の食事処となるが、いずれにせよ他の客と同席することはない。献立は飛騨会席。総料理長・笠松勲のもと、飛騨の伝統野菜と、A5等級の飛騨牛を軸に組み立てられる。ステーキ、しゃぶしゃぶ、握りと、牛の扱い方をプランごとに変えているのも、この宿が長く磨いてきた型である。

刺身に富山湾からの鮮魚が並ぶのには理由がある。江戸期、富山湾で揚がった鰤は飛騨を経て信州へ運ばれ、年取り魚として飛騨の膳に上がった。その道筋が「飛騨ぶり街道」と呼ばれる。海のない土地に海の幸が根づいた歴史を、宿は今も献立の説明に添えている。

朝は朴葉味噌である。乾いた朴の葉に味噌を乗せ、炭火で焦がしながら飯に乗せて食べる飛騨の常食。板長が仕立てる一品は、炊きたての飯と合わせて食べるための濃さに整えられている。酒を好む客には、市内七つの酒蔵の銘柄を飲み比べる愉しみもある。宿から酒蔵まではいずれも徒歩圏で、冬の「飛騨高山・酒造のん兵衛まつり」もまた歩いて巡れる距離にある。

立地 — 朝市まで一分、屋台の町の只中に

相生町という住所は、高山の観光の中心にそのまま重なる。宮川朝市まで徒歩1〜2分、古い町並みまで3分、高山陣屋まで6分。高山祭屋台会館と櫻山八幡宮までは13分である。荷物と車を宿に置き、あとは歩いて町を巡ることができる。夜、ライトアップされた町並みを歩いて戻れるのも、中心地に泊まる者だけの時間と言える。

秋の高山祭は、櫻山八幡宮の例祭として10月9日・10日に行われる。十一台の祭屋台が曳きそろえられ、精緻な彫刻と金具、からくり人形が町を進む。飛騨の匠が数百年をかけて磨いた木工と漆の技が、年に二度だけ通りに出る日である。春の山王祭は4月14日・15日。いずれもユネスコ無形文化遺産「山・鉾・屋台行事」に含まれる。祭の日程に合わせて泊まるなら、半年前の予約でも遅い場合がある。

集約レビューの傾向

公開レビューデータを集計すると、この宿への評価は建物と接遇に集中している。築百年の本館が生む空気、廊下や座敷に手が入り続けていること、客室で供される食事の落ち着きが、繰り返し支持を集めている項目である。飛騨牛の質と朝食の朴葉味噌についても評価は安定して高い。

一方で、評価が割れるのは浴場の規模である。大浴場が二か所あるとはいえ、面積は大きくない。露天に相当する信楽焼の壺風呂が沸かし湯であること、貸切風呂がないことも、湯を主目的に選ぶ層には物足りなく映る。また、昔ながらの和風旅館の構造ゆえ段差が多く、正面玄関には二段の段差がある。エレベーターは新館「遊墨庵」のみに設けられている。宿自身がこれらを公式に明記している点は、むしろ信頼に値する姿勢だと編集部は受け取っている。

向く人 / 向かない人

  • 向く:
    古い日本建築の中で夜を過ごしたい夫婦・友人連れ、高山祭や朝市を歩いて巡る旅程、客室での食事を望む人、飛騨牛と郷土食を主目的にする人
  • 向かない:
    広い湯殿や貸切風呂を求める人(浴場は小ぶりで貸切なし)、段差の少ない動線が必要な人(本館は段差が多く玄関に二段)、重度の食物アレルギーがある人(同一の調理場・調理器具を用いるため対応を断る場合がある)

具体情報

  • 所在地: 岐阜県高山市相生町58
  • 最寄り駅: JR高山駅から徒歩約7分(タクシー約3分)。送迎はなし
  • 周辺: 宮川朝市 徒歩1〜2分/古い町並み 徒歩3分/高山陣屋 徒歩6分/高山祭屋台会館・櫻山八幡宮 徒歩13分
  • 客室: 22室。改装室は「櫻」51.5㎡、「橘」50.5㎡、「桂」40.5㎡。土蔵を改めた十畳の和室あり
  • チェックイン: 15:00〜18:00 / アウト 7:00〜10:00
  • 湯: 飛騨高山温泉、単純温泉(低張性弱アルカリ性低温泉)、pH8.1。大浴場2か所(内湯=天然温泉、信楽焼の露天は沸かし湯)。入浴 15:00〜23:00、朝 6:00〜8:30(12〜3月は6:30〜8:30)
  • 食事: 夕食・朝食とも客室(人数・プランにより個室食事処)。飛騨会席、A5等級飛騨牛、朝食に朴葉味噌
  • 創業: 1934年(昭和9年)。本館は築100年以上
  • 駐車場: 無料18台、1室1台まで・事前予約制
  • その他: 全館無料Wi-Fi。タトゥーのある人も入浴可。貸切風呂なし。エレベーターは新館のみ

編集部の評価

内訳は、公開レビューデータの集約(評価水準と評価件数)に、立地適合・建築的価値・テーマ適合という編集判断を加えて算出している。市街中心という立地、築百年の本館という建築、九十年の継承という主題の三点で高く、湯の規模とバリアフリー面で減点した結果の数値である。

よくある質問

Q. 湯は源泉かけ流しですか。

A. 大浴場二か所の内湯(檜風呂・岩風呂)が飛騨高山温泉の天然温泉です。屋外の信楽焼の壺風呂は沸かし湯であると宿が明記しています。客室の風呂も温泉ではありません。泉質は単純温泉(低張性弱アルカリ性低温泉)、pH8.1で、肌当たりの柔らかい湯です。

Q. 高山祭の時期に泊まるには、いつ予約すべきですか。

A. 秋の高山祭は10月9日・10日、春の山王祭は4月14日・15日と日程が固定されています。市街中心の宿はこの前後に予約が集中するため、半年前を目安に動くのが現実的です。祭の前後を外し、朝市と古い町並みだけを目的に据えるなら、平日を選ぶことで選択肢は大きく広がります。

Q. 子ども連れでも泊まれますか。

A. 未就学児向けの食事も用意され、0歳児からバスタオル、子ども用の浴衣も備えられています。ただし2023年に改装された本館の「櫻」「橘」「桂」の三室は、小学生以下の宿泊を受けていません。乳幼児や重度のアレルギーがある場合は、調理場の設備上、対応を断られることがあります。

Q. 食事は部屋でとれますか。

A. 夕食・朝食とも客室に運ばれ、仲居が給仕します。グループの人数や献立の内容により個室の食事処となる場合がありますが、他の客と同席することはありません。

Q. 車で行く場合、駐車場はありますか。

A. 施設西側に専用駐車場があり、1室につき1台まで無料で使えます。台数に限りがあるため事前予約制で、予約時に車種の申告が必要です。市街中心部は一方通行と狭い道が多く、大型車は駐車できない場合があります。

本記事の参考情報

・旅館田邊 公式サイト — 沿革、客室、湯、料理、施設情報
・飛騨・高山観光コンベンション協会 — 高山の観光・祭礼情報
・高山市 — 市の公式情報、飛騨高山の名匠制度
・Wikipedia: 高山祭 — 祭礼の歴史と屋台行事の背景

編集部から

九十年という時間は、旅館にとって決して長すぎる数字ではない。むしろ難しいのは、その間に何度訪れる建て替えの誘惑を退け、古い骨格を残したまま手を入れ続けることのほうである。旅館田邊の本館は築百年を越え、なお客を泊める現役の建物として立っている。製糸の家が旅籠に転じ、作家の書を預かり、女将が土地の名匠に認定され、そして三室の座敷が改められた——その履歴の一つひとつが、宿の輪郭を少しずつ確かなものにしてきた。屋台が通りに出る十月、朝市の声が宮川沿いに響く朝、この宿の廊下を歩いてみると、飛騨という土地が木と漆に託してきたものの輪郭が、わずかに見えてくる。次はどの一軒の、どの代の話を聞きに行くべきだろうか。