霜月の風が山あいの蔵をくぐるころ、旅館の夕餉は一献の酒から始まる。夏を越して丸みを帯びた酒、あるいは搾りたての若い一献。膳の前にまず盃が置かれるのは、単なる作法ではない。土地の蔵と宿とが、季節の変わり目を分かち合ってきた長い習いの現れである。本稿では、新潟・長野・兵庫という銘醸地の周縁に立つ三軒の食通宿を手がかりに、なぜ秋の膳が蔵出しの酒から幕を開けてきたのかを、酒器と温度の話に沿って辿ってみたい。

なぜ、膳は一献から始まるのか

先付の前に酒が置かれる。この順序を、料理長たちはことさら説明しない。けれども蔵元との付き合いが長い宿ほど、この一献に季節の合図を託してきた。夏の熟成を経てまろやかになった酒は、秋の実りの膳を穏やかに迎えるための前奏であり、搾りたての若い酒は、これから始まる冬の仕込みへの予感を告げる。膳の主役はあくまで料理であるが、その料理を土地に結び直すのが、地の蔵から届いた一杯なのである。

酒器の選びにも、宿ごとの思想が宿る。冷やして香りを立てる酒には薄手の硝子を、燗にして米の甘みを引き出す酒には厚手の陶を。温度もまた作法のうちで、ひと肌の燗が膳のどこで供されるかは、料理長の献立の設計そのものと言ってよい。以下に挙げる三軒は、いずれもこの前奏を疎かにしない宿である。

1. 松之山の谷に、酒を主役に据えた一軒 —— 酒の宿 玉城屋

日本三大薬湯のひとつ松之山温泉に、フランス料理と地の酒の対を軸に据えた十一室の宿がある。

Media Picks Score: 93 / 100  新潟県十日町市・松之山温泉、11室の小規模宿。目安価格 ¥93,000–¥140,000 / 泊 (2名1室・通常期・食事込)


酒の宿 玉城屋 — 新潟・松之山温泉 · 雪見の露天風呂と湯気立つ谷あいの景
PHOTO: 酒の宿 玉城屋 — 公式サイトを見る →

松之山の谷は、雪深い里山である。その湯の里に、宿の名にそのまま「酒」を掲げた一軒がある。玉城屋は、日本三大薬湯に数えられる松之山の湯を持ちながら、膳の設計を酒に寄せてきた。主人は日本酒の利き手であり、ソムリエの資格も併せ持つ。土地の蔵と組んでこの宿のためだけに醸された酒や、他所には出回らない限定の一献が、季節ごとに膳へ上る。

料理は、東京の星付きで研鑽を積んだ料理長が、里山の食材にフランスの技を重ねて仕立てる。柏崎の港から届く海の幸、山で自ら採る山の恵み。二〇二〇年に編まれた地域版の星の評でも、その一皿は認められている。膳が始まる前に置かれる一献は、この土地の海と山を一本の線で結ぶための前奏として選ばれる。冷やで香りを立てるか、燗で米の甘みを引くか —— その判断は、その日の献立と外の寒暖に委ねられる。秋の実りと冬の予感が交わる霜月に、この宿の膳は最もその本領を見せると言ってよい。

2. 標高千五十メートルの森で、信州の酒と菜園を合わせる —— 扉温泉 明神館

松本の奥、扉の山に湧く湯を持つ一軒宿で、信州の酒と自家菜園の料理が秋の膳を編む。

Media Picks Score: 92 / 100  長野県松本市・扉温泉、44室。目安価格 ¥145,000–¥214,000 / 泊 (2名1室・通常期・食事込)


扉温泉 明神館 — 長野・松本市 · 森を望むラウンジの設えと大きな硝子越しの緑
PHOTO: 扉温泉 明神館 — 公式サイトを見る →

松本の市街から車を東へ走らせると、扉川の谷を遡った先に一軒宿が現れる。明神館は、標高千五十メートルの扉の山から湧く湯を持ち、九十年ほどの歴史を重ねてきた。国際的な宿の連盟に名を連ねる一軒でもあり、料理は自家菜園の有機野菜を軸に、フレンチと懐石の二つの流儀から選べる。

この宿の膳は、信州ワインとともに語られることが多い。けれども松本という土地は、名の通った酒蔵が根を張る酒どころでもある。谷の冷気で締まった秋の野菜に、地の酒の澄んだ一献を合わせるとき、料理はいっそう土地の輪郭を帯びる。膳の前に置かれる盃は、都会の食卓のそれとは温度が違う。標高が高く、外気の冷える扉の谷では、ひと肌の燗が膳の始まりをやわらかく解きほぐす。森の緑を大きな硝子越しに眺めながら、秋の一献から膳へと移ってゆく時間は、この一軒宿ならではのものと感じられる。

3. 大正の木造に、但馬の地酒を集める —— 城崎温泉 但馬屋

大正十五年創業、城崎の外湯めぐりの街に、但馬の地酒の品揃えを身上とする十二室の宿がある。

Media Picks Score: 91 / 100  兵庫県豊岡市・城崎温泉、12室の小規模宿。目安価格 ¥59,000–¥75,000 / 泊 (2名1室・通常期・食事込)


城崎温泉 但馬屋 — 兵庫・豊岡市 · 土壁と竹をあしらった大正建築の和室と行灯の明かり
PHOTO: 城崎温泉 但馬屋 — 公式サイトを見る →

城崎は、七つの外湯をめぐる湯の街である。大谿川に柳が影を落とす街並みの一角に、但馬屋は大正十五年から暖簾を掲げてきた。木造三階の館は、土壁・古木・竹・炭を惜しみなく用いた大正の普請で、館内には三つの貸切の湯を持つ。料理は地産地消を身上とし、春から秋は但馬牛を、冬は松葉がにを膳の中心に据える。

この宿が他と一線を画すのは、但馬の地酒への傾倒である。城崎とその周辺には、但馬を代表する酒蔵が点在し、但馬屋はその地酒の品揃えを数ある城崎の宿の中でも随一と自負してきた。松葉がにが解禁される晩秋から冬にかけて、燗をつけた地の酒を蟹の甘みに合わせる —— この土地ならではの取り合わせを、宿は膳の設計に織り込んでいる。冷えた蟹の身に、ひと肌の燗が寄り添う。膳の始まりに置かれる一献は、これから供される但馬の味覚への案内役でもある。大正の木造がまとう古色と、行灯のやわらかな明かりのなかで、盃を傾ける時間は、湯の街の夜をゆっくりと深めてゆく。

本稿で触れた宿

宿 エリア Score 客室 目安価格 酒との関わり
酒の宿 玉城屋 新潟・松之山温泉 93 11 ¥93–140k 宿専用に醸す地の酒と仏料理の対
扉温泉 明神館 長野・松本市 92 44 ¥145–214k 自家菜園の料理に信州の酒を添える
城崎温泉 但馬屋 兵庫・城崎温泉 91 12 ¥59–75k 但馬の地酒の品揃えを宿の身上とする

※ 目安価格は公開販売価格の集計に基づく参考値で、実際の予約料金とは異なります。1泊2名利用時の1室あたり料金(税込・食事込)です。Media Picks Score は公開レビューデータを集計し、立地・規模・季節適合を加味した編集部の指標です。

よくある質問

Q. 新酒やひやおろしが膳に並ぶのはいつごろですか?

A. 一般に、夏を越して熟成させた「ひやおろし」は秋口の九月から十月に、その年の新米で仕込んだ搾りたての酒は晩秋から冬にかけて出回ります。旅館の膳では、霜月から師走にかけてが、蔵出しの一献を最も味わいやすい時季と言えます。宿ごとに扱う蔵や銘柄が異なるため、季節の酒の内容は宿へ直に確かめるのが確実です。

Q. 日本酒に不慣れでも、酒と料理を合わせて楽しめますか?

A. 本稿で触れた宿は、いずれも料理長や主人が酒の合わせを設計しています。玉城屋のように主人がソムリエと利き酒の心得を持つ宿では、盃の温度や順序まで膳に沿って整えられます。強い酒が得意でない場合は、その旨を伝えれば量や銘柄の調整に応じてもらえます。

Q. 温泉の効能や湯質に特徴はありますか?

A. 松之山温泉は有馬・草津と並ぶ日本三大薬湯の一つで、濃い泉質で知られます。扉温泉は標高千五十メートルの山から湧く湯、城崎は七つの外湯をめぐる湯の街と、三軒それぞれに湯の個性があります。湯上がりの一献を膳の前奏とする点は、いずれの宿にも通じます。

Q. 子連れでも利用できますか?

A. いずれも小規模の宿で、静かな滞在を重んじる設えです。客室数が限られるため、子連れでの利用可否や対応は宿ごとに方針が分かれます。乳幼児連れの場合は、事前に宿へ相談するのが確実です。

Q. アクセスはどのようになりますか?

A. 玉城屋はほくほく線まつだい駅から車で、明神館はJR松本駅から車で扉川沿いを上ります。但馬屋はJR城崎温泉駅から徒歩圏で、外湯めぐりの街の中心に位置します。いずれも最寄り駅からの送迎の有無は宿へ確認するとよいでしょう。

本記事の参考情報

Wikipedia: 松之山温泉 — 日本三大薬湯の歴史と泉質
Wikipedia: 城崎温泉 — 外湯めぐりの街の成り立ち
Wikipedia: 日本酒 — 醸造の季節性と燗・冷やの作法

編集部から

三軒に通じるのは、酒を膳の付属物ではなく、土地と季節を結ぶ前奏として扱う姿勢である。蔵と宿とが季節を分かち合い、搾りの時季には往還を重ねる —— その関係が、盃の一献に土地の重みを与えている。霜月から師走、蔵が最も忙しくなるこの季節に、旅館の膳がなぜ一献から始まるのか。その答えは、料理の手前に置かれた小さな盃の温度のなかにある。次はどの銘醸地の膳を訪ね、どんな前奏に出会うだろうか。

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